2024年05月26日 朝の礼拝「今日、主の救いを見よ」

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2024年05月26日 朝の礼拝「今日、主の救いを見よ」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
出エジプト記 14章1節~31節

聖句のアイコン聖書の言葉

14:1 主はモーセに仰せになった。
14:2 「イスラエルの人々に、引き返してミグドルと海との間のピ・ハヒロトの手前で宿営するよう命じなさい。バアル・ツェフォンの前に、それに面して、海辺に宿営するのだ。
14:3 するとファラオは、イスラエルの人々が慌ててあの地方で道に迷い、荒れ野が彼らの行く手をふさいだと思うであろう。
14:4 わたしはファラオの心をかたくなにし、彼らの後を追わせる。しかし、わたしはファラオとその全軍を破って栄光を現すので、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」彼らは言われたとおりにした。
14:5 民が逃亡したとの報告を受けると、エジプト王ファラオとその家臣は、民に対する考えを一変して言った。「ああ、我々は何ということをしたのだろう。イスラエル人を労役から解放して去らせてしまったとは。」
14:6 ファラオは戦車に馬をつなぎ、自ら軍勢を率い、
14:7 えり抜きの戦車六百をはじめ、エジプトの戦車すべてを動員し、それぞれに士官を乗り込ませた。
14:8 主がエジプト王ファラオの心をかたくなにされたので、王はイスラエルの人々の後を追った。イスラエルの人々は、意気揚々と出て行ったが、
14:9 エジプト軍は彼らの後を追い、ファラオの馬と戦車、騎兵と歩兵は、ピ・ハヒロトの傍らで、バアル・ツェフォンの前の海辺に宿営している彼らに追いついた。
14:10 ファラオは既に間近に迫り、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、
14:11 また、モーセに言った。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。
14:12 我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」
14:13 モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。
14:14 主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」
14:15 主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。
14:16 杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。
14:17 しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。
14:18 わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」
14:19 イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、
14:20 エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。
14:21 モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。
14:22 イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。
14:23 エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入って来た。
14:24 朝の見張りのころ、主は火と雲の柱からエジプト軍を見下ろし、エジプト軍をかき乱された。
14:25 戦車の車輪をはずし、進みにくくされた。エジプト人は言った。「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」
14:26 主はモーセに言われた。「海に向かって手を差し伸べなさい。水がエジプト軍の上に、戦車、騎兵の上に流れ返るであろう。」
14:27 モーセが手を海に向かって差し伸べると、夜が明ける前に海は元の場所へ流れ返った。エジプト軍は水の流れに逆らって逃げたが、主は彼らを海の中に投げ込まれた。
14:28 水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、一人も残らなかった。
14:29 イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んだが、そのとき、水は彼らの右と左に壁となった。
14:30 主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルはエジプト人が海辺で死んでいるのを見た。
14:31 イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
出エジプト記 14章1節~31節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:旧約聖書最大の奇跡?
 ある説教者は、今日のこの海を渡るという奇跡が、旧約聖書最大の奇跡だと述べています。しかしこの印象的な奇跡は、今の私たちにとってはどのような意味があるのでしょうか。たとえば、私たちの人生には、大きな試練が襲い掛かって来て、どこにも逃れる道が見つからないと思えるような時にも、今日の海が割れる出来事と同じように、神が突然目の前に道を開いてくださって、すべての事が上手くいくようになるのでしょうか。私たちの人生は、それほど単純なものなのでしょうか。
 私たちの人生には、私たちが死ぬまで背負い続け、悩み続けてていかなければならない重荷があり、長い間、苦しみ、悩みながら、最後まで解決が与えられない問題が残り続けることがあるのではないでしょうか。今日の箇所の11・12節のイスラエルの民の叫びは不信仰ではありますが、一方で出口の見えない問題に閉じ込められている人間の、嘘偽らざる思いでもあるのではないでしょうか。

Ⅱ:神の計画によって危機に遭う
 イスラエルの人々は、神の奇跡によって、遂にエジプトの地を脱出して、カナンの地へと旅立ちました。ところが、ファラオはここに来て再び心変わりをし、民を去らせたことを後悔し始めました。そこで自ら軍勢を率いて、イスラエルの人々の後を追ってくることになります。
 しかし1節から4節では、このファラオの行動が神によって引き起こされたものであるということが明らかにされています。イスラエルの人々がすぐにシナイ半島に行かずに、海辺に宿営することで、エジプトのファラオに、彼らが混乱して道に迷っていると思わせて、民を追ってくるように仕向けさせたのです。その追ってきたファラオとエジプト軍を撃ち破ることによって、ご自分が真の主であることをエジプト人たちに知らしめようとしておられる、ここまでが神のご計画の全体像なのです。しかし当のイスラエルの民は、エジプトの戦車隊が自分たちを追ってきて、すでに間近に迫っているということに気が付くと、パニックを起こします。そして神に向って叫び、自分たちの命を危険に晒したモーセに対して激しく抗議しました。
ここまで、私たちが見てきたエジプトのファラオとモーセの対決の背後に隠されている本当のテーマは、ファラオと聖書の神の、どちらが真の主なのかということでした。そしてエジプトに降された、あの十の災いを通して、イスラエルの神こそが全世界を支配する真の主であるということが示されたのです。ところがこの時イスラエルの民は目前に迫ってくる軍隊を見て、民はイスラエルの神に従うよりも、ファラオに従う方が安全で、命を得ることが出来ると判断したのです。

Ⅲ:落ち着いて、主の救いを見よ
 一体、私たちが苦しんでいる目の前の問題を解決出来ない神とは何なのか。そう訴えるイスラエルの民に対して、モーセは「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。」と答えます。イスラエルの人々は目の前に立ちはだかる深く暗い海と、背後から迫ってくるエジプトの戦車に目を奪われて、これまで民を導いて来られた神に目を向けることが出来なくなっています。しかし今日あなたがたが見て、恐れているものは、永遠にあなたがたを苦しめ続けることはできない。だから、その滅びていくものを恐れないで、永遠に変わる事のない主の救いを見なさい。これがモーセが民に、そして聖書が私たちに語り掛けるメッセージです。私たちが今日、何を見て、何に心を留めるか。そのことを聖書は問いかけるのです。

Ⅳ:神によってしっかりと立たせられる
 「落ち着きなさい」という言葉は、「しっかり立ちなさい」という意味の言葉です。すなわち、目の前で起こる出来事に一喜一憂して心を騒がせないで、神に信頼して依り頼むということです。しかしそれは決して簡単なことではありません。高いところに上って、恐怖で足がすくんで動けなくなってしまった人に、いくら「下を見ないで、こっちを見なさい」と声を掛けても、どうしても下を見てしまうのと同じように、いくら「落ち着きなさい」「しっかりと立ちなさい」と言われてもそうすることが出来ない。それが私たちの弱さなのです。
 しかし神は、そのような私たちに「下ばっかり見ないで、私の方を見なさい」と上から声を掛けて、叱責するだけのお方ではありません。私たちのところにまで降りて来てくださって、身を挺して私たちをかばい、ご自身が支えとなって、私たちをしっかりと立たせてくださるのです。この時も、目の前のファラオと軍隊の力を恐れて、「神の救いなどはいらない、放っておいてくれ」と叫んだ不信仰な民を、神は彼らの言葉通りに放ってはおかれませんでした。その不信仰な民をご自分の身を挺してかばい、助け起こし、彼らに代わって敵と戦い、勝利してくださったのです。それがイスラエルの神、聖書の神、この世界をご支配しておられる真の神なのです。

Ⅴ:今日も、神の救いの中を生きる
 最後に、第一コリント10章前半で、パウロは今日の出エジプト記の出来事を取り上げて、教会の洗礼と重ね合わせています。私たちイエス・キリストによって罪の支配から解放されて、永遠の命へと続く道が前に開かれたということ、それこそが海が二つに割れる以上の奇跡、私たちが困難の中で目を向けるべき、神の救いの御業なのです。
 洗礼は、その神の救いを私たちが目に見える形で示され、保障されるための礼典です。あのイスラエルの民と同じように、この世の苦難や試練に目を奪われて、すぐに神から目を逸らして恐れを抱いて、神に対して「放っておいてくれ」と叫ぶ不信仰な私たちのために、神がその私たちの罪と戦い、御子イエスの十字架と復活による救いを私たちに与えて下さった。そのことを神ご自身が示し、保障してくださるのが、洗礼という礼典なのです。
 洗礼を受けてキリスト者になれば、この世の苦難から解放されて試練に遭うことがなくなるのではありませんし、悟りを開いてもう悩まなくなる訳でもありません。私たちの荒野の旅は、この後もまだ続いていきます。私たちはきっとこれからも、何度でも、出口が見えない試練の中で神を見失い、恐れにとらわれてしまう時があるでしょう。しかし、神は決して私たちを見失うことも見放すこともありません。たとえこの地上の生涯が最後まで苦しみと困難に満ちていたとしても、今日私たちの目の前にある苦しみは、やがて過ぎ去っていきます。それはやがて私たちに訪れる、神と共に過ごす永遠の喜びと比べれば、ほんの一瞬に過ぎないのです。そして、この地上の生涯の中で試練に立たされている今日も、私たちはその神の恵みと祝福の中で生かされているのです。

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