Ⅰ:旧約聖書最大の奇跡?
ある説教者は、今日のこの海を渡るという奇跡が、旧約聖書最大の奇跡だと述べています。しかしこの印象的な奇跡は、今の私たちにとってはどのような意味があるのでしょうか。たとえば、私たちの人生には、大きな試練が襲い掛かって来て、どこにも逃れる道が見つからないと思えるような時にも、今日の海が割れる出来事と同じように、神が突然目の前に道を開いてくださって、すべての事が上手くいくようになるのでしょうか。私たちの人生は、それほど単純なものなのでしょうか。
私たちの人生には、私たちが死ぬまで背負い続け、悩み続けてていかなければならない重荷があり、長い間、苦しみ、悩みながら、最後まで解決が与えられない問題が残り続けることがあるのではないでしょうか。今日の箇所の11・12節のイスラエルの民の叫びは不信仰ではありますが、一方で出口の見えない問題に閉じ込められている人間の、嘘偽らざる思いでもあるのではないでしょうか。
Ⅱ:神の計画によって危機に遭う
イスラエルの人々は、神の奇跡によって、遂にエジプトの地を脱出して、カナンの地へと旅立ちました。ところが、ファラオはここに来て再び心変わりをし、民を去らせたことを後悔し始めました。そこで自ら軍勢を率いて、イスラエルの人々の後を追ってくることになります。
しかし1節から4節では、このファラオの行動が神によって引き起こされたものであるということが明らかにされています。イスラエルの人々がすぐにシナイ半島に行かずに、海辺に宿営することで、エジプトのファラオに、彼らが混乱して道に迷っていると思わせて、民を追ってくるように仕向けさせたのです。その追ってきたファラオとエジプト軍を撃ち破ることによって、ご自分が真の主であることをエジプト人たちに知らしめようとしておられる、ここまでが神のご計画の全体像なのです。しかし当のイスラエルの民は、エジプトの戦車隊が自分たちを追ってきて、すでに間近に迫っているということに気が付くと、パニックを起こします。そして神に向って叫び、自分たちの命を危険に晒したモーセに対して激しく抗議しました。
ここまで、私たちが見てきたエジプトのファラオとモーセの対決の背後に隠されている本当のテーマは、ファラオと聖書の神の、どちらが真の主なのかということでした。そしてエジプトに降された、あの十の災いを通して、イスラエルの神こそが全世界を支配する真の主であるということが示されたのです。ところがこの時イスラエルの民は目前に迫ってくる軍隊を見て、民はイスラエルの神に従うよりも、ファラオに従う方が安全で、命を得ることが出来ると判断したのです。
Ⅲ:落ち着いて、主の救いを見よ
一体、私たちが苦しんでいる目の前の問題を解決出来ない神とは何なのか。そう訴えるイスラエルの民に対して、モーセは「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。」と答えます。イスラエルの人々は目の前に立ちはだかる深く暗い海と、背後から迫ってくるエジプトの戦車に目を奪われて、これまで民を導いて来られた神に目を向けることが出来なくなっています。しかし今日あなたがたが見て、恐れているものは、永遠にあなたがたを苦しめ続けることはできない。だから、その滅びていくものを恐れないで、永遠に変わる事のない主の救いを見なさい。これがモーセが民に、そして聖書が私たちに語り掛けるメッセージです。私たちが今日、何を見て、何に心を留めるか。そのことを聖書は問いかけるのです。
Ⅳ:神によってしっかりと立たせられる
「落ち着きなさい」という言葉は、「しっかり立ちなさい」という意味の言葉です。すなわち、目の前で起こる出来事に一喜一憂して心を騒がせないで、神に信頼して依り頼むということです。しかしそれは決して簡単なことではありません。高いところに上って、恐怖で足がすくんで動けなくなってしまった人に、いくら「下を見ないで、こっちを見なさい」と声を掛けても、どうしても下を見てしまうのと同じように、いくら「落ち着きなさい」「しっかりと立ちなさい」と言われてもそうすることが出来ない。それが私たちの弱さなのです。
しかし神は、そのような私たちに「下ばっかり見ないで、私の方を見なさい」と上から声を掛けて、叱責するだけのお方ではありません。私たちのところにまで降りて来てくださって、身を挺して私たちをかばい、ご自身が支えとなって、私たちをしっかりと立たせてくださるのです。この時も、目の前のファラオと軍隊の力を恐れて、「神の救いなどはいらない、放っておいてくれ」と叫んだ不信仰な民を、神は彼らの言葉通りに放ってはおかれませんでした。その不信仰な民をご自分の身を挺してかばい、助け起こし、彼らに代わって敵と戦い、勝利してくださったのです。それがイスラエルの神、聖書の神、この世界をご支配しておられる真の神なのです。
Ⅴ:今日も、神の救いの中を生きる
最後に、第一コリント10章前半で、パウロは今日の出エジプト記の出来事を取り上げて、教会の洗礼と重ね合わせています。私たちイエス・キリストによって罪の支配から解放されて、永遠の命へと続く道が前に開かれたということ、それこそが海が二つに割れる以上の奇跡、私たちが困難の中で目を向けるべき、神の救いの御業なのです。
洗礼は、その神の救いを私たちが目に見える形で示され、保障されるための礼典です。あのイスラエルの民と同じように、この世の苦難や試練に目を奪われて、すぐに神から目を逸らして恐れを抱いて、神に対して「放っておいてくれ」と叫ぶ不信仰な私たちのために、神がその私たちの罪と戦い、御子イエスの十字架と復活による救いを私たちに与えて下さった。そのことを神ご自身が示し、保障してくださるのが、洗礼という礼典なのです。
洗礼を受けてキリスト者になれば、この世の苦難から解放されて試練に遭うことがなくなるのではありませんし、悟りを開いてもう悩まなくなる訳でもありません。私たちの荒野の旅は、この後もまだ続いていきます。私たちはきっとこれからも、何度でも、出口が見えない試練の中で神を見失い、恐れにとらわれてしまう時があるでしょう。しかし、神は決して私たちを見失うことも見放すこともありません。たとえこの地上の生涯が最後まで苦しみと困難に満ちていたとしても、今日私たちの目の前にある苦しみは、やがて過ぎ去っていきます。それはやがて私たちに訪れる、神と共に過ごす永遠の喜びと比べれば、ほんの一瞬に過ぎないのです。そして、この地上の生涯の中で試練に立たされている今日も、私たちはその神の恵みと祝福の中で生かされているのです。