Ⅰ:主に呼び寄せられた十二人
今朝のマタイ福音書10章には、主イエスが宣教の働きに遣わした十二人の弟子たちが出てきます。彼らは旧約のイスラエルの十二部族になぞらえられて、主イエスが打ち立てる新しい神の民の十二部族の長として選ばれた「使徒(遣わされた者)」と呼ばれる人々です。
この十二人の弟子の中には、名前だけでなく、その言動や働きが良く知られている弟子がいる一方で、聖書には名前だけしか出てこない弟子もいます。それは福音書の記者が伝えようとしているのは、彼らの活躍や業績ではなくキリストだからです。あくまで、キリストが語られた言葉を語り、なされた働きを行うことが、キリストの弟子の使命なのです。
そしてその弟子たちの働きは、主イエスに呼び寄せられるという事から始まります。主イエスがご自分の側に呼び寄せてくださる時に、私たちは始めてキリストの弟子となり、働き人となるのです。そして弟子は、キリストから離れて自分の力で何かをなすことは出来ません。キリストと共にあることによって、弟子としての使命を果たすことが出来るのです。
Ⅱ:十二使徒
それではこの時、そのように主イエスに呼び寄せられた十二人とは、どのような人たちだったでしょうか。最初に名前を挙げられているのは、「ペトロと呼ばれるシモン」と彼の兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟です。マルコ福音書によれば、主イエスはこのゼベダイの兄弟に「雷の子ら」というあだ名をつけています(短気な性格から?)。この四人は全員、ガリラヤで漁師をしていた人たちでした。
そして彼らに続いて名前が挙がっているのは、フィリポ、バルトロマイ、トマス、徴税人マタイの四人です。マタイは主イエスの弟子となる前は、ローマ帝国の手先となる徴税人という仕事をしていた人物です。
そして最後が、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、そしてイスカリオテのユダの四人です。「熱心党」は当時のユダヤ教のグループの一つで、外国人の支配を拒み、そのためには暴力に訴えることも辞さないという過激な思想を持った集団です。ですからこの熱心党に属していたシモンは、徴税人マタイとは水と油のような存在です。その二人が、同じ主イエスの弟子として共に行動していたのです。これは本当に驚くべきことです。
そして最後のイスカリオテのユダは、もしかしたらこの十二使徒の中で、最もよく名前が知られている人物かも知れません。彼は、銀貨30枚で主イエスをユダヤ人に売り渡した「裏切者」の代名詞です。
こうして見ると、主イエスが選ばれた十二人の弟子たちは、実に多様な思想や背景を持った人々の集団であったということが分かります。そして彼らは、早とちりでおっちょこちょいだったり、怒りっぽくて短気であったり、疑り深かかったりといった、多くの弱さや欠点を持っている「普通の人たち」でした。
なぜ主イエスはこのような欠けだらけの人々の「でこぼこの集団」をご自分の使徒とされたのか。いくら考えてもその理由は私たちには分かりません。結局それは、主イエスが彼らを選ばれたからとしか説明のしようがありません。
そしてその事はそのまま、ここにいる私たち一人一人にも当てはまります。人間的にも能力的にも私より優れている人はごまんといるのに、なぜこの私が教会の一員に加えられているのか。その理由は、私たちの頭でいくら考えても分かりません。けれども、私たちが今日この場にいるということは、確かにイエス・キリストが、この私を呼び寄せて下さったからなのです。
十二使徒がそうであったように、現代の教会もまた、様々な違いを持つ雑多な人間の集まりです。そこに、教会と言う共同体の良さがあり、また難しさもあると言えるかも知れません。大切なのは、その雑多な集団が何によって一致するのかということです。それは私たちが、自分の願いや努力によってではなく、ただ主イエス・キリストの選びによってここにいるということです。そしてそのキリストを信じる「信仰」によってこそ、一つの共同体となることが出来るのです。
Ⅲ:ペトロとイスカリオテのユダ
そのような主イエスの不思議な選びを、最もよく表しているのは、十弟子の最初と最後に出てくるペトロとイスカリオテのユダです。
ペトロは十二弟子の中でもリーダであり、主イエスがこの地上を去られた後は、教会の指導者となりました。しかし聖書は、このペトロが十字架に架けられようとしている主イエスを、人々の面前で三度否定したことを隠すことなく記しています。主イエスを裏切った弟子は、イスカリオテのユダだけではなく、十二使徒の筆頭であるペトロを含めた他の十一人もすべて、主イエスを裏切った者たちであり、彼らを含めた世のすべての人が、主イエスを十字架に引き渡した当事者なのです。
ですから、人間の理屈から言えばユダだけではなく、彼らすべてが裏切者として裁かれるべきなのです。しかし、ユダを除く十一人は復活された主イエスと出会い、そしてペンテコステの日に聖霊を注がれて、教会の新しい十二部族の礎となりました。それもまた、私たちの理屈ではうまく説明が付きません。それはただ主イエスが彼らをもう一度、ご自分の下に呼び寄せてくださったから、そうとしか私たちには理解のしようがありません。そして事実そうなのです。イスカリオテのユダと他の弟子たちを分けたもの、それは彼らの信仰深さや正しさではなく、主イエス・キリストの憐れみなのです。
使徒ペトロはいわば、キリストを信じて弟子となった、私たちキリスト者のモデルです。ペトロと同じように、主イエスを「知らない」と拒んだ過去の罪を憐れみの故に赦されて、聖霊を注がれた者たちの名前が、この十二使徒の名前の後に続いていくのです。そこには、今日この礼拝に招かれている私たちの名前も記されているのです。
Ⅳ:聖霊によって礼拝に招かれる
主イエスが天におられる今、私たちをキリストの下へ呼び寄せてくださるが、ペンテコステの日に弟子たちに与えられた聖霊なる神です。私たちが今日、この礼拝の席に座っているのも、聖霊が一人一人に働きかけてくださったからに他なりません。
そして聖霊は、イエスを三度否んだ弱いペトロを、力強い伝道者に造り変え、「雷の子(怒りの子)」と言われたヨハネを「愛の人」に作り変えたように、私たちをキリストに似た者へと変えてくださるのです。
このペンテコステの朝、私たちは聖霊によってキリストの御下へと呼び寄せてられ、ここからまたそれぞれの生活の場へ、キリストと共に遣わされて行くのです。