2024年05月12日 朝の礼拝「収穫は多い」

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2024年05月12日 朝の礼拝「収穫は多い」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 9章35節~38節

聖句のアイコン聖書の言葉

9:35 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。
9:36 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。
9:37 そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。
9:38 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 9章35節~38節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:伝道に遣わされるために
 主イエスは、いきなり弟子たちを宣教の働きに遣わすようなことはされませんでした。まず御自身が、弟子たちに教えを語り、そして弟子たちにご自分の働きを体験させて、いわば実地で彼らを学ばせて、充分に訓練しから、彼らを宣教の働きに遣わされたのです。私たち現代の教会に言い換えるなら、まず私たち自身が、聖書の御言葉を学び、あるいは教理を学ぶということが、伝道の働きの前提となるということです。
 ではその伝道の働きの準備段階において弟子たちが学んだ、主イエス御自身の宣教の働きとはどのようなものだったのでしょうか。35節には、そのイエスの三つの働きが記されています。前半の二つ、「教える」「宣べ伝える」は「言葉による宣教」、もう一つの「癒す」という働きは「行いによる宣教」です。その「言葉による宣教」が具体的に語られていたのが、5章からの山上の説教、「行いによる宣教」が語られていたのが8章からの奇跡物語です。 
 こうして見ると主イエスの宣教は、何も奇をてらったような、特別変わったことをしているのではありません。神の国の教えを語り、弱い人々のところへ赴いて、癒しと慰めの業を行う。そのような地道な活動を続けながら、弟子たちを教え、訓練する。そういう極シンプルな仕方で、主イエスは福音宣教の働きを行っておられたのです。
 教会の伝道は、時代に合わせて変化させていかなければならない部分がある一方で、決して変わらない(変えてはならない)本質的な部分というものがあるのです。それが、聖書の言葉を通して神の福音を語り、弱さの中にある人々に隣人愛を示すということです。キリスト教会は、この一見地味に見える、あるいは非効率的に見える働きを地道に続けていく事によって、二千年に渡って福音伝道の働きを続けてきたのです。なぜなら、それが主イエスが最初に弟子たちに示してくださった、福音伝道の本質的なあり方だからです。この神の言葉の力に信頼して福音を語り続け、隣人愛を示し続けるということ、それ以上に教会を進展させていくことの出来る働きはないのです。

Ⅱ:群衆を深く憐れまれるイエス
 そして36節には、伝道についてのもう一つの大切な要素、主イエスの福音宣教の動機について記されています。「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」これが正に主イエスの福音宣教の動機です。主イエスが山上の説教で語られた教えも、様々な奇跡も、それらはすべて、主イエスの「深い憐み」ということから生じた「憐みの業」に他ならないのです。そしてこの主イエスの深い憐みの心を知って、それに共感するということが、教会の伝道の動機となるのです。
 当時のローマ帝国は「ローマの平和」と言われる、それまでにない平和で安定した時代でした。ですから当時のユダヤ人たちの状況は、必ずしも「弱り果てて、打ちひしがれている」という表現には当てはならないかもしれません。しかし、たとえ人々がどんなに平和や経済的な繁栄を享受していたとしても、その彼らの姿は自分たちを正しく導いてくれる「まことの羊飼い」を持たない、憐れな羊の群れとして映ったのです。
 主イエスは、そのような人々の姿を見て、彼らの弱さを蔑んだり、愚かさを非難するのではなく、むしろそのような神を離れ迷い出た人々を「深く憐れまれた」のです。この言葉は、たとえばルカ福音書の「よきサマリア人」の譬え話の中で、強盗に身ぐるみ剥がれて半死半生で倒れている旅人を見かけたサマリア人が「憐れに思った」と言われている言葉です。あるいは、同じルカ福音書の放蕩息子の話で、家を出て放蕩の限りを尽くした息子の姿を見つけた父親が、「憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」と言われている言葉です。
 主イエスもまた、神から離れて罪と死に支配されて弱り果てている、群衆を深く憐れまれて、その憐れみに心を突き動かされて、人々に神の国の福音を宣べ伝え、病に苦しむ人々を癒されたのです。  

Ⅲ:収穫の主に祈る
 教会の伝道は、この主イエスの憐れみの業を引き継いでいるのです。しかしそう考えます時に、私たちは到底、そのような深い憐みの心を持って福音を語り、愛の奉仕を成していると胸を張ることは出来ないのではないでしょうか。けれども主イエスは、「あなたがたも心を入れ替えて私のように熱心に伝道しなさい」とは言われずに、たった一つ「収穫のために働き手を送ってもらうように、収穫の主に願いなさい」、つまり「祈りなさい」と教えておられるのです。
 伝道とは、私達が労苦して成し遂げるのではなく、主が働かれ、主が成し遂げてくださる神の業であって、そのための働き手も主が送ってくださるのです。そうであれば伝道において私たちが何よりもまずすべきことは、この収穫の主御自身に祈るということです。この主に祈ることは、何よりも大切な、そして効果のある伝道の働きです。私たちはたとえ具体的な働きが何も出来ないとしても、祈りによって、教会の伝道の働きを担うことが出来るのです。

Ⅳ.収穫は多い
 そして主イエスは、「収穫は多いが、働き手は少ない」と述べておられます。「収穫は多い」という言葉は、私たちの教会の外に、いわゆる信者の予備軍がひしめいている、という意味ではありません。ここで言う「収穫が多い」とは、飼い主のない羊のように弱り果てて、主イエスの救い(福音)を必要としている魂が大勢いるということです。そうであればこの言葉は、私たち日本の教会を取り巻く状況と見事に一致しています。
 日本は、ローマの平和と経済的な反映を謳歌していたユダヤ人たちとよく似た状況に置かれていると言っても良いかも知れません。しかし、その一見、豊かに見える社会を目を凝らして見ればそこには、生きることに疲れ、人間関係に疲れ、病や死を恐れて弱り果てた魂が、ここそこに倒れているのではないでしょうか。ですから日本もまた、「収穫のために働き手を送ってもらうように、収穫の主に熱心に祈る」ということが、何よりも必要なのです。私たちの住んでいるこの地域も、教会の外に一歩出れば、神を知らず、本当の命も救いも知らない、飼い主のいない羊たちが大勢、弱り果て、打ちひしがれて倒れています。私たちの目の前にも、まことの救いが与えられるのを待っている、多くの収穫が広がっています。
 彼らに真の福音を届けるために、まず私たち自身が、主の日の礼拝を通して神の言葉に聞き続け、キリストが今も私たち一人一人に注いでおられる深い憐みを知ることが、私たちがこのキリストの憐れみの心を持って、主の福音を告げ知らせる喜びの働きへと遣わされていくために必要なことなのです。

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