クリスマスの御子の誕生は私たちにとって大きな喜びであります。しかしその喜びに続く今朝の箇所で語られているのは、突然の暴力によって自分たちの人生が望まない方へ変えられてしまった人たちの苦しみと嘆きです。御子の誕生の場面が、クリスマスの光の部分であるとするならば、今朝読んだ物語はクリスマスの影の部分です。
当時のある歴史家は、このヘロデと言う人物について「彼は常に恐怖にさいなまれ、いかなる嫌疑の種にも激昂し、・・・何の罪もない多くの人を拷問へと引き立てていった。」と記しています。
こういう人物ですから、「ユダヤ人の王」を抹殺するために、一帯に住む幼い男子を皆殺しにするという命令を下すことが出来たのでしょう。そしてこの悲劇を記した後にマタイは、今朝最初にお読みしたエレミヤ書31章15節の言葉を引用して、この出来事が「預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した」のだと、こういう説明を加えています。
この悲しい出来事が、旧約に預言されていたことの実現(成就)なのだ、と言われる時に、では「なぜ神はそのような悲劇を計画されたのか」という疑問が私たちの心に湧いてくるのではないでしょうか。
二〇二二年二月にロシアが突然、ウクライナへ侵攻しました。その戦争の中で、一般市民が命を奪われ、戦火を逃れるために多くの人が難民となっています。ヘロデの時代からすでに二千年以上が経っていますが、しかし現実は今も何も変わっていません。この聖書の時代にヘロデによって起こされた悲劇は、今もこの世界に起こっているのです。そしてクリスマスのメッセージは、そういう「暗闇の中を生きている人」に向けて語り掛けられているメッセージなのです。
「ラマ」とはベツレヘムの近くにあった古代の町の名前であり、旧約聖書の創世記に登場するヤコブの妻ラケルのお墓があった場所です。ラケルは、ヤコブの息子たちの諍いによって息子ヨセフを失い、更にヨセフの弟ベニヤミンを出産する際に命を失ってしまった、悲しみの女性でした。預言者エレミヤは、このイスラエル民族の母ラケルの悲しみを、バビロン捕囚という苦難に見舞われたイスラエルの人々の悲しみと重ね合わせているのです。そしてそのラケルの悲しみは、新約聖書のイエス・キリストがお生まれになった時代においてヘロデと言う人物によって再び繰り返されたのです。そして今の私たちの時代にも、戦争によって、疫病によって、また様々な人生の苦難によって、ラケルの悲しみはずっと続いているのです。
しかし、そのようなこの世界の暗闇、ラケルの悲しみを生み出したのは神ではなく、私たち人間の罪です。今朝の箇所でヘロデが行った無慈悲で残虐な行為は、決して神にその責任があるのではありません。この悲劇は、自分が王として君臨するためであれば、他人を傷つけることも、踏みにじることも厭わないヘロデ自身にその罪と責任があるのです。そしてここに描かれているヘロデの姿は、私たち人間が持っている最も醜く暗い罪の性質を色濃く映し出していると言ってもよいでしょう。人間は誰しも、自分が自分の王として君臨し続けようとするときに、他人を傷つけることを厭わない「小さなヘロデ」となるのです。その私たちの持っている罪が、今この世界を覆っている様々な悲しみや苦しみをこの世界に創り出し、私たちから喜びを奪い取っているのです。
しかし、神は決してそのような私たちの現実を放っておかれているのではありません。なぜならマタイがここで引用しているエレミヤ書の預言には続きがあります。エレミヤ書の預言は、絶望や裁きの預言で終わるのではなく、最後には子を失い、国を失った人々に対する回復の預言として語られているのです。
そして神は同じように今も、愛する我が子を失った母親のような本当に深い悲しみや絶望の中に生きている人々に向けて「泣きやむが良い。目から涙を拭いなさい。あなたの苦しみは報いられる。あなたの未来には希望がある」と語り掛けておられるのです。
そして、このような罪深く闇に覆われた私たちの世界に、あのクリスマスの夜、その人々の目から涙を拭い去り、絶望に沈んでいる人に希望をお与えになる真の王が私たちのところに来てくださったのです。それが本当のクリスマスの喜びのメッセージです。
そして19節以降では、その幼子イエスの命を狙っていたヘロデが死に、再び天使が夢に現れて、ヨセフにイスラエルへ戻るようにと告げています。そこでヨセフは御告げに従って一旦はエルサレムへ戻るのですが、しかしヘロデの後を継いだ彼の息子アルケラオは、父ヘロデの残忍な性格をそのまま受け継いだような人物でした。そこでヨセフ一家はガリラヤにあるナザレという小さな町に行き、そこに住みついたのです。そしてここでもマタイはその出来事が旧約聖書の成就であったと述べています。
ところが、旧約聖書のどこをどう調べてみても、この「彼はナザレの人と呼ばれる」という預言に当てはまる言葉は出てきません。しかし旧約聖書の中で、恐らくマタイが念頭に置いていたのはこの言葉ではないかと考えられている箇所が一つあります。それはイザヤ書11章1節の御言葉です。
【エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとどまる。】この「若枝」と訳されている言葉は『ネーツェル』というヘブライ語ですが、このヘブライ語の母音を少し変えて読むと、今朝の箇所で「ナザレ人」と訳されている言葉になります。マタイは、主イエスが「ナザレのイエス」と呼ばれたことと、イザヤがメシヤを「若枝」と読んだことを結び付けている訳です。
この真の王は、人々が抱いているあらゆる希望が倒されて、そして人々が絶望している時代に、そこに芽生えた小さな新芽のような希望、「若枝」として来られたのです。世の人々が経験するあらゆる悲しみと嘆きをご自分の身に受けられて、そしてその泣いている者たちの涙を拭い取るために来られたのです。そしてこのようなお方であるからこそ、私たちはこの真の王に、どんな悲しみや絶望の中にある時も、最後まで希望を置くことが出来るのです。
昨年は皆さんにとって、もしかしたら多くの涙を流さねばならない年であったかも知れません。そしてもしかしたら今年もまた私たちは、多くの涙を流さなければない出来事に出会うかも知れません。しかし私たち信仰者は、そんな風にすべての希望や喜びを失い、もう何の力も出てこない、そういう何もかも失って打ち倒されてしまった時に、しかしそこに小さく、しかし確かに芽を出している若枝のような希望を見出すことが出来るのです。
周囲の人のどんな慰めの言葉も届かない、そういう暗い絶望の暗闇の中に置かれている時に、しかし私たちは、そこに静かに輝く光を見出すのです。その希望の光は、今は私たちの目には小さな若枝(新芽)としか映らないかも知れません。しかし、ちょうど神がこの時、幼いイエスをこの世のすべての敵からお守りになったように、私たちに与えられている小さな希望を、神は確かに守っていてくださるのです。そしてその希望はやがて、私たち人間の思いや願いを遥かに超えて成長し、最後には私たちに永遠の命を与える、そういう真の希望の光となるのです。