Ⅰ:イザヤ書の成就として
8章から始まった主イエスの奇跡についての報告は、今日の箇所で終りとなります
前回の箇所では、十二歳の少女を主イエスが生き返らせるという奇跡が語られていました。この「死者の蘇生」は、ある意味で「これ以上ない」究極的な奇跡です。その奇跡中の奇跡の後に、目の見えない人と口のきけない人の癒しが置かれているのは、何故でしょうか。その理由は、今日の旧約朗読でお読みしたイザヤ書35章の御言葉の中に隠されています。この他にもイザヤ書29章、42章でも、神の救いが到来したしるしとして、見えない人が見えるようになり、耳の聞こえない人が聞こえるようになる、という預言が語られています。そしてそのことは、この後のマタイ11章のところで、主イエス御自身の口からも語られています。このイザヤ書の預言が、イエス・キリストによって成就したということを、マタイ福音書は、この奇跡物語の結論として伝えようとしているのです。
Ⅱ:目の見えない男性の癒し
そこで前回の箇所で少女を甦らせた主イエスが、恐らく8章に出てきたペトロの家に帰ろうとしておられた途中で、二人の目の見えない人が「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫びながら、主イエスの後に付いてきました。この福音書の中で、最初に主イエスを「ダビデの子」と呼んだのが、今日の二人の目の見えない人たちです。神の救いを切実に必要としているのは、今まさに苦しみの只中にいる人たちです。そして聖書に約束されている救い主は、そのような主の憐みを求めるしかない貧しい者を救い出すためにこの地上に来られたのです。
ところがその救い主イエスは、彼らの求めにすぐにはお答えにならず、そのまま家の中に入ってしまいました。なぜ主イエスは、必死に呼び掛ける彼らの叫びに、すぐには耳を貸そうとせず、その場ですぐに癒してやらなかったのでしょうか。
一つには、彼らの求めに応じないということで、その信仰が本物であるかどうかを試されたと理解することが出来るでしょう。事実、必死に「ダビデの子よ、憐れんでください」と叫んでいる自分たちの前を主イエスが素通りして行かれた時に、この二人の男性は心折れてしまってもおかしくなかったかも知れません。しかし彼らはそれでもこの時、最後まで主イエスの後に付いて行き、ついには家の中に押しかけてまで、主イエスに近寄ろうとしたのです。ですからこの時、主イエスが彼らの求めにすぐに応じなかったことによって、この彼らの信仰が試され、練られたのは確かです。
しかし理由はそれだけではありません。30節で彼らの目を開かれた主イエスが「このことは、だれにも知らせてはいけない」と厳しく命じておられるように、主イエスはこの時、人々のみている前で、この癒しの奇跡を行いたくなかったのではないでしょうか。
「厳しく命じた」という言葉は、怒りの感情を含むような、かなり強い表現です。それ程に主イエスは、ご自分の行われる奇跡の出来事だけが独り歩きしてしまうことを警戒されたのです。
実際、主イエスの奇跡を目撃した民衆の多くは「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と驚き感心したのですが、しかしその彼らの驚きは長くは続かなかったのです。
Ⅲ:イエスの言葉を真剣に受け止める
そして三つ目の理由は、主イエスが彼らの願いを片手間にではなく、それを真剣に受けとめようとされたからではないかと思うのです。あるお医者さんが書いた本の中で、患者さんに対して重要な話をする時には、そのための相応しい場を設けることが大切であると書かれていました。
この時主イエスが尋ねた「わたしにできると信じるのか」という問い掛けは単なる世間話ではありません。「あなたはわたしを信じるのか」という真剣な問い掛けです。そしてそのような真剣な問いは、それを受け取る方も真剣に聞き取らなければなりません。それはつまり、主イエスの言葉を、不特定多数に語られている教えとしてではなくて、今この私に語り掛けられている神の言葉として聞き取るということです。主イエスはこの時、二人が主イエスの言葉を真剣に受けとめることが出来るように、それに相応しい時と場所へと彼らを導かれたのではないでしょうか。
この主イエスの問い掛けに対して、二人の男性は短く、「はい、主よ」と答えています。「わたしにそれが出来ると信じるのか」という主イエスの言葉を真剣に受けとめて、それを「はい、主よ」と言って肯定したのです。そしてそれこそが本当の意味での信仰告白なのです。
信仰告白とは、「これから私は一生、主イエスに付いて行きます」という決意表明ではありません。主イエスが私たちに語りかけておられる言葉を、この私に対する語り掛けとして真剣に受けとめて、そしてその主の語り掛けに対して「はい、主よ」と答えることなのです。
それは奇跡によってではなく、聖書の御言葉を通して主イエス・キリストと出会うときに初めて与えられる信仰なのです。そしてその聖書の御言葉を通して主イエスとの人格的な交わりを与えられる時に、私たちの霊的な目が開かれるのです。
しかし、私たちが主イエスの言葉にただ素直に、「はい、主よ」と頷くことは、簡単なように見えて、実はとても難しいことです。特に困難や試練に直面している時に「私はあなたを愛している」「あなたといつも共にいる」と語り掛ける主イエスの言葉は、私たちの耳に届かなくなってしまいます。そして主が私を愛しているかどうかは、『私が決める』事柄になり、期待通りの結果が得られなければ信じないという事になってしまうのです。ユダヤの群衆もファリサイ派の人々も、目に見える奇跡だけに目を奪われていて、その奇跡が指し示すものを見ようとしなかったために、結局最後まで神の国の福音を理解することできなかったのです。
Ⅳ:よろめく足を強くされて
しかし今日ここにいる私たちは、そうではありません。私たちキリスト者は、聖書のみ言葉を単なる教えとしてではなく、この私に対する神の命の言葉として聞くことが出来た幸いな者です。
御言葉を通して真の救い主であるキリストと出会い、そのキリストの「私に出来ると信じるのか」という問い掛けに対して「はい、主よ」と答えることが出来た幸いな者です。そして見えなかった目を見えるようにされて、真の神を見上げる者となり、賛美の歌と祈りの言葉があふれ、神の福音を人々に告げ知らせる者へと変えられたのです。
私たちもまた、この世の様々な試練に苦しみ悩み、時に傷つき倒れます。しかし私たちは、約束されている神の救いと永遠の命の希望を仰ぎ見て、神によってよろめく膝を強くされて、再び立ち上がって、憐れみ深い主と豊かな愛の交わりに生き、この信仰の生涯を力強く最後まで歩んでいくのです。