Ⅰ:出エジプトという歴史的記憶
前回の箇所で、イスラエルの民はエジプトの奴隷のくびきからようやく解放されて「出エジプト」を果たしました。この出エジプトはイスラエル人にとって、自分たちが確かに神の民であるということを確信させる重要な出来事となりました。
17節の冒頭には、神がこの時イスラエルの民を最短ルートであるペリシテ街道ではなくて、遠回りとなる荒野を通るルートへと導かれたと書かれています。その理由について同じ17節には「民が戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれない、と思われたからである。」と述べられています。
ファラオは、普段から国の国境地帯に軍隊を駐留させていて、外部から侵入してくる敵はもちろん、外国へ逃げようとする逃亡奴隷の監視にもあたらせていました。このペリシテ街道にも国境を見張る軍隊が常駐していたのです。イスラエルの人々はこれまで長い間、エジプトの奴隷として支配されてきた人々でした。奴隷は、ただ命令に従っていればそれで良い訳ですし、もちろん自分たちの国を守るために戦うという経験もありませんでした。その彼らがエジプトの軍隊と正面から出会えば、恐らく戦いを恐れて早々に降服して、エジプトへ再び連れ戻されることになったでしょう。そこで神はこの時、遠回りになるけれども、安全なルートへと導かれたのです。
新約聖書の手紙の中で使徒パウロが、弟子のテモテに対して書き送っていますように、キリスト者は、時に迫害や困難に対しても、勇気をもって一歩を踏み出していく者であって、決して臆病者ではありません。しかしそれは、無謀な挑戦をするとか猪突猛進するということとは違います。それは聖書の語る勇気ではありません。大切なのは、それが神のみ心に従って行う決断であるということです。今日の箇所で、神は新しい一歩を踏み出したばかりご自分の民のか弱さに配慮して、彼らが危険を避けることが出来るように、別の道へと導いて下さいました。自らの弱さや限界を率直に認めて、神の与えてくださる愛とご配慮に身を委ねるということも、私たちキリスト者が持つことの出来る勇気であり、知恵なのです。
Ⅱ:雲の柱、火の柱
そのような神のご自分の民に対するご配慮は、続く21節以下(雲の柱、火の柱)にも見つけることが出来ます。聖書においてこの雲や火という現象は、神がそこにおられるという「神のご臨在」を目に見える形で表すしるしとして、たびたび登場しています。
昼の間は雲の柱が人々の前に立って、彼らを導き、夜になると火の柱が人々の前に先立って民を導いたのです。更にエジプトの軍隊が追って来た時には、その間に立って民を守る働きもします。この『常に民と共にあり、昼も夜も彼らを導き、また敵から守る』雲と火の柱の姿は、正に聖書が語る神の姿そのものです。この雲と火の柱は、神が民と共におられるということを目に見える形で示された「神の臨在のしるし」なのです。
そして、そしてこの出エジプト記の最後には、この雲の柱が民の間に留まっている間は、何日も移動せずにその場に留まり、雲が彼らから離れると出発したという民の様子が描かれていますが、その民の姿は、神の民の本来あるべき姿です。そしてその場合も、雲が留まっている時には自分たちも留まるということの方が、より大きな勇気と信仰が必要だったのではないでしょうか。
特に教会の歩みには、「神の時がくるのを留まってじっと待つ」ということが必要になる場面が少なくありません。しかし、御言葉と祈りの中で、そのような神のみ旨が示された時には、たとえそれが自分たちの願いや計画とは違うとしても、その場に留まる、あるいは神の示される方向へ向きを変えて進んでいくということが、神の民である教会のあるべき信仰なのです。
そしてそのような信仰の勇気を持つためには、神がいつも私たちと共におられ、その主の約束は必ず成し遂げられるという信仰を養うことが大切です。今日のお話の19節には、エジプトを出発したモーセが、ヨセフの骨を携えていたということが記されています。創世記の終りにあるヨセフの遺言が、およそ数百年の時を超えてようやく果たされることになる訳ですが、何と気の遠くなるような話でしょうか。その約束が実現するまでにイスラエルの民は、どれ程の回り道や失敗を繰り返さなければならなかったのでしょうか。
しかし、人間の目には同じ場所に留まっていて一歩も進んでいないように見える時も、神の目にはそれがご自分の民を確かに救いへと導くための必要な道のりであったのです。
Ⅲ:キリストの十字架と復活のしるし
出エジプトという出来事は、アブラハムとその子孫に与えられた神の救いの約束が、現実のものとなった出来事として、イスラエルの人々の記憶に残り、今日に至るまで語り継がれてきました。しかし神の救いのみ業は、目に見える成功や幸運の中にだけ見出すことが出来るのではありません。彼らが奴隷の軛に置かれていた間も、敵に襲われ、飢え乾くときも、昼も夜も神の守りが彼らと共にあったのです。
今、私たちの目の前には、雲の柱も火の柱もありません。しかしそれはもはや私たちはそのような目に見えるしるしに頼らなくても良いからです。神の御子であり、人となられた救い主イエス・キリストの十字架と復活という出来事を通して、神が今日も私たちと共におられるということを知ることが出来るからです。
そのキリストの十字架と復活を信じて、キリストの名による洗礼を受けて、同じ聖霊を注がれているということ。それが、私たちが神の民に属しているということの確かなしるしです。私たちは主の日の礼拝ごとにその核心を新たに与えられるのです。
Ⅳ:今日も我らに先立っていく神
神は世の終わりの日まで、いつも私たちに先立って、その先頭を歩いてくださり、また背後から襲う敵から守り、救いの完成へと導いてくださいます。その日が来るまで教会の歩みが終わることはありません。そして私たちのこの小さな群れの前にも、今日も私たちに先立って歩いてくださるまことの神がおられるのです。