2024年04月21日 朝の礼拝「死の闇を乗り越えて」

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2024年04月21日 朝の礼拝「死の闇を乗り越えて」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 9章18節~26節

聖句のアイコン聖書の言葉

9:18 イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」
9:19 そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。
9:20 すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。
9:21 「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。
9:22 イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。
9:23 イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、
9:24 言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。
9:25 群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。
9:26 このうわさはその地方一帯に広まった。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 9章18節~26節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:ユダヤ人指導者の信仰とイエス
 今日のお話は、一人のユダヤ人の指導者が主イエスのもとを訪ねて、死んでしまった娘を生き返らせてほしいと願う場面から始まります。この時、主イエスの所に来た指導者(マルコやルカでは会堂長)は、ユダヤ人社会において高い地位についている人物でした。ここまでユダヤの宗教的指導者たちと主イエスの間に緊張関係が生まれ始めている中で、指導者の一人であるこの男性が、主イエスのもとを訪れてひれ伏すのは、勇気がいる行動だったかも知れません。しかも彼は、自らが罪人との食事に加わった訳ではありませんが、しかし敬虔なユダヤ人なら決して交わろうとしない罪人とイエスが食事をしている場所に足を運んで救いを求めたのです。それは彼にとっては、精一杯の主イエスに対する信仰の表明だったのでしょう。愛する娘の死を前にして、彼は周囲の目に対する恐れや、指導者という立場もをかなぐり捨てて、主イエスの前にひれ伏したのです。
 そこで主イエスは、この指導者の求めに応じて食事の席から立ち上がり、彼に「従って」下さったのです。主イエスは愛する者を失ったこの男性の悲しみと嘆きを、ご自分のものとして受けとめて下さり、清水の舞台から飛び降りるようにして主イエスを訪ねてきた信仰を受けとめてくださったのです。

Ⅱ:長血の女の信仰とイエス
 そこで彼の家に向かう主イエスの前に、十二年の間、不正出血の婦人病に苦しんでいた女性が現れます。律法によれば、彼女のように不正出血が続いている女性は、宗教的に汚れた者として扱われ、彼女が触れた物や人も汚れたものと見做されました。宗教的に汚れた存在と見做されていたという点では、8章に出てきた重い皮膚病の男性と似ているかも知れません。しかし、8章の男性が正面からイエスに近付いていって、自らの口で病の癒しを願っているのに対して、この女性は人々に紛れて後ろからこっそり主イエスに近付いて、その衣服の房(裾)の部分に触れています。
 彼女が、重い皮膚病の男性のように正面から主イエスに声を掛けることが出来なかったのは、恐らく彼女が「女性」だったからです。当時の社会において「女性」は男性よりも低い地位に置かれていました。あるいは、この女性の抱えている痛みや不快感、心身の不調は、同じ女性であれば容易に想像することが出来ますが、しかし男性には中々想像するのが難しい苦しみです。そのような女性特有の苦しみを、男性である主イエスが理解してくれるかどうか、そもそも女性である自分を一人の人間として扱ってくれるかどうか。この女性と主イエスの間には、律法の規定だけでなく、古い因習や性差別といった様々な障壁が横たわっていて、正面から近付くことを困難にしていたのです。彼女には後ろから、こっそりと、衣服の端に触れるのが精一杯だったのです。この着物の裾に触れるという行為も、もしかしたら迷信的な理解があったのかも知れません。しかしこの時、女性に気付かれた主イエスは、彼女の信仰を否定されず、彼女の方を振り向いて「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われたのです。正面から主イエスに近づくことの出来ない彼女の信仰を、主イエスの方が向き直って、正面から受けとめてくださったのです。

 私たちはいつも、確かな信仰の喜びや確信を持って礼拝に来ることが出来るとは限りません。一週間の様々な出来事で受けた傷や痛み、そこから来る怒りや悲しみを抱えたまま礼拝に来ることもあれば、不安や疑いを抱えながら会堂に座っているということもあるかも知れません。今日のお話の女性のように、とても正面から主イエスに近付くことは出来ない、後ろからこっそりと、衣の裾に触れるようにしか近付くことが出来ない、そういう弱さを抱えている私たちを、しかし主イエスが振り向いて、私たちを正面から受けとめて「元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と声をかけてくださるのです。

Ⅲ:死から命へ
 こうして主イエスが指導者の家に到着すると、すでに少女の弔いの準備が始められていました。しかし主イエスは彼らに対して「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ」と言って、彼らを家の中から追い出します。そして家の中に入られて少女の亡骸と向きあった主イエスは、彼女の手を取られました。最初の18節の「手を置く」という言葉は、そっと手を添えるという意味の言葉です。しかしここで主イエスがなさったことはそれ以上のことでした。「手をおとりになる」は、手を伸ばして相手をしっかりと掴み離さないようにする、という意味の言葉です。そして主イエスは、この少女の手を取って、死から命へと引き上げられたのです。
 
 奇しくも十二年という同じ年月にまつわる苦しみを抱えていた二人の女性の姿の中に、私たちの現実の苦しみの姿というものがあるのではないでしょうか。十二年もの間、病に苦しめられていた女性と、たった十二年という短い命を終えることになった少女、一体どちらがより不幸であると言えるか。人は生きていくということにも、死ぬということにも、それぞれの悲しみと痛みがあるのです。
 しかしキリストは、それらのあらゆる苦しみと障壁を乗り超えて、この二人の女性と出会い、彼女らをしっかりと捕らてくださったのです。
 社会の慣習や偏見も、罪に対する恐れも無知も、そして人間にとっての最期の敵である死でさえも、主イエスとの関係を断ち切ることは出来ません。この世のあらゆるものを乗り超えて、主イエスは私たちの手をしっかりと掴んで下さり、私たちを死から命へと引き上げてくださる「命の主」なのです。

Ⅳ:生きるも死ぬもイエスと共に
 私たちは、愛する者の死を前にした時には、ただ涙を流して泣く事しかできません。主イエスもまた、愛する者を失った者と共に涙を流してくださるお方です。しかし主イエスの与えてくださる慰めは、それで終わるのではありません。この世には、いくら涙を流しても、完全に癒されない悲しみがあります。しかし主イエスは、その悲しみを喜びへと変えることが出来る権威を持つお方です。そしていつの日か必ず、主イエスがその涙を拭い取ってくださる日がきます。「その人は死んだのではない。眠っているのだ。」そう言って、私たちの愛する者を、そして私たち自身を助け起こしてくださる日が、やがて来るのです。イエスこそ、死に打ち勝ち、命を与える権威を持つ命の主です。私たちは生きるにも死ぬにも、いつもこの命の主であるイエス・キリストと共にあります。死も病も罪も恐れも、このキリストの愛から私たちを引き離すことはないのです。

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