今朝の箇所には、洗礼者ヨハネと呼ばれる人物が登場します。彼は四つの福音書全てに登場しますが、いずれもヨハネを、真の王である主イエスのために「道を備えよ」と呼び掛ける「荒れ地の声」であったということ、更に旧約聖書のマラキ書に預言されていた「預言者エリヤの再来」であったということを証言しています。洗礼者ヨハネは、神の救いが旧約の時代から新しい時代、新約の時代を迎えようとしている、その旧約と新約を繋ぐ預言者として福音書の初めに登場しているのです。
そこで洗礼者ヨハネは、人々に向かって「悔い改めよ。天の国は近づいた」と呼び掛けました。「国」という言葉は「支配」という意味も持っています。ですから「天の国」とは「神の支配する王国」あるいは「神が支配しておられる状態」のことを指しています。それは必ずしも死んだ後の天の御国のことだけを指しているのではありません。この地上においても、そこに神の御支配が実現している時に、そこは「天の国」であると言う事が出来る訳です。そして今、約束の救い主が来られた事によって、まさにこの世界の只中にその神が支配される天の国が実現しようとしている。その事が「天の国は近づいた」というヨハネの呼び掛けの意味であります。
しかし「天の国が近づいた」という知らせは、私たちにとって喜ばしいニュースというだけでなく、同時に恐ろしい知らせでもある訳です。12節では、この天の国を治める王は「麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」と言われています。そのように、神のご支配が本当にこの地上に完成する時は、同時にこの世界から悪しき者が一層される時でもあるのです。そして真の王である主イエスが来られた今、その神の裁きが下される日も確実に近づいているのだ。こう言ってヨハネは人々に「悔い改めよ」と呼び掛けているのです。
そして多くの人が、そのヨハネの呼びかけに答えて、荒れ野にやって来て自らの罪を告白してヨハネから洗礼を受けました。すると7節では、そのファリサイ派とサドカイ派のユダヤ人たちもヨハネから洗礼を受けようとしたという事が書かれています。ところが、その彼らに対してヨハネは「蝮の子らよ、・・・」という大変厳しい言葉を投げかけて、彼らを追い返してしまします。ヨハネがこの時彼らに洗礼を授けることを拒んだ理由は、続く8節後半に「悔い改めにふさわしい実を結べ」とあるように、「悔い改めに相応しい実を結んでいないのに、形だけの洗礼を受けて神の怒りを逃れることが出来るなどとなぜ考えているのか。」と言って彼らに洗礼を与えることを拒んだのです。
彼らに対してヨハネは9節で「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。」と彼らに告げています。アブラハムは神の民イスラエルの最初の祖先となった人物です。そしてユダヤ人たちは、そのアブラハムの血を引く選ばれた神の民である自分たちは、当然神に救われると考えていました。その高ぶった心が、彼らが悔い改めにふさわしい実を結ぶということを妨げていたのです。
「悔い改め」とは、神を裏切り、神から離れていた者が、もう一度その真の神のもとに帰って来ることです。(ギリシャ語の「悔い改め」は文字通り「方向転換する」という意味の言葉です。)ですから、神が求めておられる「悔い改め」とは、単に犯した一つ一つの罪を悔いて懺悔することではなく、私たちが180度方向転換して、真の王に自分自身を全く明け渡すことです。
しかしファリサイ派やサドカイ派の人々は、自分たちは今のままでアブラハムの子孫として救われると考えて、神に自らを明け渡すまことの悔い改めをしようとはしませんでした。彼らにとってヨハネの洗礼は、その自分の救いを強化するための「プラスアルファ」にしか過ぎませんでした。そしてヨハネはその彼らの傲慢さを見抜いていたので、彼らに洗礼を授けることを拒んだのです。
今朝ここにいる私たちは、血筋においてはアブラハムの子孫でもユダヤ人の子孫でもありません。しかし私たちもまた、どこかで彼らと同じような過ちを犯してしまうことがあるのではないでしょうか。「自分は真面目に礼拝を守っている」「毎日聖書を読んで、お祈りをしている」、どこかでそういう「自分の敬虔さ」や「自分の信仰深さ」を誇っているということが私たちにもあるかも知れません。あるいは、神のみ前に罪を悔い改めることでさえも、自分の敬虔さや信仰深さを誇るための手段となってしまうことがあるかも知れません。
確かに私たちが救われるためには罪を悔い改めることが必要です。しかし、罪を悔いる私たちの謙虚さや、罪を懺悔する私たちの敬虔さが、神の心を動かして許しを引き出すのではないのです。私たちが神の前に罪を悔い改めることが出来ること、それもまた神から与えられている恵みなのです。
ヨハネは「神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」と言いました。「石」という言葉は聖書の中では時に「命のない者、死んだ者」というイメージで用いられることがあります。そして私たちがそのように、自分では全く良い実を結ぶことが出来ない、死んだ石に等しい者であることを神の御前に認めて、ただ神の恵みにのみ私たちの望みを置く時に、その私たちの砕けた心が「悔い改めに相応しい実」の最初の実りとなるのではないでしょうか。
主イエスもやがて人々の前に立って、洗礼者ヨハネと同じように「悔い改めよ。天の国は近づいた」と語られました。しかしこの主イエスによって実現した天の国は、洗礼者ヨハネが語ったような、良い実を結ばない木を切り倒して焼き払っていく恐怖と裁きの支配する王国ではありませんでした。この主イエスによって現された天の国は、神の独り子が、私たちに変わって切り倒され、火に投げ入れられることによって神が私たちの罪を赦して下さった、その愛と恵みによってもたらされる神のご支配でありました。
そしてこの十字架の死と復活を通して、真の王となられた主イエスは今も「罪を悔い改めなさい」と告げておられるのです。それは決して、罪を悔い改めなければ、火に投げ込んで滅ぼしてしまうという言葉で私たちを脅しているのではありません。「この私が、あなたが犯した罪を全て贖った。あなたの罪はもうすべて赦されている、だから、あなたは悔い改めて、私と共に新しい命を生きなさい」という愛と恵みに満ちた呼び掛けなのです。この呼び掛けに答えて、主イエスを真の王として信じ、私たちの人生にお迎えすること、それこそが悔い改めに相応しい実であります。こんな石のような愚かで罪深い私をも、「アブラハムの子」として造り変えることがお出来になる、その神の力を信じて歩み続ける時に、私たちはこの与えられた信仰の歩みの中で、その悔い改めにふさわしい実を豊かに結んでいくことが出来るのです。