2024年04月14日 朝の礼拝「光の中を進み行け」

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2024年04月14日 朝の礼拝「光の中を進み行け」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
ヨハネの手紙一 1章5節~10節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:5 わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。
1:6 わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。
1:7 しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。
1:8 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。
1:9 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
1:10 罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネの手紙一 1章5節~10節

原稿のアイコンメッセージ

 私たちが「光」という言葉を聞いて真っ先にイメージ出来るのはお日様の光ではないかと思います。「明けない夜はない」という言葉がありますが、それと同じように、この世界には「沈まない太陽」もありません。あるいは昼間の太陽が強く照らす時間にも、それに比例して地面には黒井影がより一層はっきりと映し出されます。この世の中には完全な光の世界は存在しません。光があればそこに必ず影も生まれるというのが、私たちの生きている現実です。
 それに対して神が持っておられる光は、陰ったり沈んだりすることもなく、ほんの僅かの影や汚れもない「全き光」です。
 「光」という表現はとても広い意味を持つ言葉ですが、ヨハネ福音書の冒頭では御子イエス・キリストを指し示して用いられています。主イエス御自身も自らを「世の光である」と言われていますように、ヨハネにおける光とはキリスト御自身、あるいはキリストのもたらす救いの希望の事です。
 一方で今日のこのヨハネの手紙の中で「神は光である」と言われる「光」とは「神様の完全な聖さ」の事を表してます。その全き光である神に対する人間の応答についてこの手紙は、「光の中を歩く」生き方と「闇の中を歩く」という二つの道を示しています。そして「神という光と交わりを持つためには、光の中を歩まなければならない」と教えています。
 
 この手紙には差出人の名前や受取人の名前は一切記されていません。ただ手紙の内容から幾つかの断片的な背景を読み取ることができます。2章19節以下で「彼らはわたしたちの仲間から去っていきました云々…」という言葉がありますように、この手紙の宛先の教会では、一部の人々が「初めの教え」とは異なる教えを唱えるようになり、教会の交わりから離れていきました。ヨハネは彼らを「イエスがキリストであることを否定する者たち」「反キリスト」と呼んで厳しく批判しています。
 彼らはキリストが来られたということは認めますが、しかし「人として」この地上に来られたという使徒たちの教えは認めようとしませんでした。6節以下の「もし私たちが~なら」という表現は、その教会から離れていった人々が主張していたことであったと思われます。
 それによれば闇の中を歩いている者とは、自分では「神様との交わりを持っている」と主張していながら、実際の生き方においては真理を行なっていない者です。 面白いのは、それに対する「光の中を歩んでいる者」の特徴として、「神との交わりを持っている」事ではなく「互いに交わりを持っている」事を挙げている点です。
 神との交わりを持つという事は、特に兄弟姉妹との交わりという形で具体的に現されるのです。そしてこの「互いの交わりを持っている者」は、同時に「罪からも清められ」るのです。交わりと罪の赦しには、直接的にはあまり関係が無いようにも思えるかも知れません。

 しかし神様が闇とは相いれない全き光である御方であるとすれば、私たちの内にある闇(=罪)の問題を解決しなければ、神との真の交わりを持つ事が出来ないのは明らかです。
 そこで8節の「自分に罪がないと言うなら」、10節の「罪を犯したことがないと言うなら」という表現は、恐らくこれも教会を離れていった異端者が主張していた言葉であると思われます。
 「罪がない」という言葉は、そもそもこの世には「罪」というものは存在しないという主張です。ある人は「教会に行くと『あなたは罪人です、罪を悔い改めなさい』と言われて、罪人扱いされるのが嫌だ」と言います。その人にとって罪とは、公の法律を犯したり、社会道徳に反する事です。ですから法律に違反したり、人様の迷惑にならなければいいのであって、教会が教える罪は罪でないと考えるのです。
  
 もう一つの「罪を犯したことがない」という主張は、一般的な意味での罪の存在は認めますが、自分が何か罪を犯したという個人的な罪を認めようとしない態度です。自分は完全な正しい人間ではないし、罪を犯したことがあるかも知れない。しかし周囲の人と比べて、自分だけが大きな罪を犯しているとは思わない。だから自分はごく普通の人間である。」大抵の人は自分自身の罪についてそんな風に分析するのではないでしょうか。
 そこでの罪の基準は私たちが心に持っている「良心(良い心)」です。その良心の咎目がどのくらいあるかどうかが罪の重さを測る基準となります。その基準に従って多くの人は自分の罪は「誰かに罪を贖って貰わなければ救われない程の罪ではない」と判断しているのです。

 しかし私たちの罪の基準はあくまで、神の全き光に照らされた時にそれに耐え得るかどうかなのです。この神様を脇に置いて世の道徳や自分の良心によって「自分に罪はない」と主張するなら、それは自らを偽ることであり、またそれ自体が神を嘘つき呼ばわりする大きな罪ではないか、とヨハネは指摘しているのです。

 このような「闇の中を歩く者」の特徴は、暗闇の中にいながら自分が闇の中を歩いているとは考えず、むしろ「光の中を歩いている」と考えているという事です。 
いや、自分ではそれに気付くことが出来ない程に闇は深く私たちを覆っているのです。そしてその罪の暗闇の中で自分の持っている灯りを掲げて、「自分はちゃんと明るい光の中を歩いている」と安心しているのが、闇の中を生きている者の姿です。

 そこでヨハネは、そのあなた方が頼りにしている光は頼りにならない、だからまずその自分の小さな光を消してあなたが今暗闇の中にいる事を知りなさい。そして暗闇の中から神という全き光のもとに出て来てきなさいと教えるのです。
しかし、その光の下に立つときには私たち自身の持つ本来の罪深い汚れた姿を映し出され、その自分自身と向き合わなければならなくなります。それは私たちにとって身を切られるような痛みと恥とを伴う辛く苦しい事です。しかし私たちが自分で作り出した小さな灯りの下に留まっていれば、自分の汚れた姿は映し出されませんし、自分の罪の汚れを見ないで済みます。しかしそれは結局自分の罪を観ないようにして自らを欺いている過ぎず、いずれ神の最終的な審判の光の前に否応なく立たなければならない時に、その偽りは暴かれる日が来るのです。
 ですからヨハネは、時が与えられている今、勇気をもってその罪で汚れた姿を神の光の前に差して、その罪を清めて頂きなさいと呼び掛けるのです。神の光は私たちの罪の姿を映し出す光であると同時に、キリストにあって私たちの罪を赦し、私たちに命を与える神の愛の光なのです。
 私たちは信仰を得て、また教会の交わりに加わった後も、この地上においてはなお罪を犯し続けるものであります。しかし私たちは譬え罪を犯す事があるとしても、それは決して闇の中に留まっているのではありません。私たち日々光の中でその罪を悔い改める事で清められているのであって、私たちの信仰の歩みは、光の中をさらなる光に向かって歩き続けている歩み、動き続ける営みな

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