Ⅰ:洗礼者ヨハネの弟子たち
今日の箇所は、主イエスが徴税人や罪人たちと食事の席についておられるその同じ場面を目撃した、ファリサイ派とは別のグループから、主イエスに対する非難の声が挙がった出来事です。その別のグループとは、14節に登場する「洗礼者ヨハネの弟子たち」でした。彼らが問題にしたのは、「断食」というユダヤ人の習慣を巡る主イエスの態度でした。
「断食」は、ユダヤ人にとって断食は大切な宗教的行為の一つです。旧約において断食が命じられているのは、レビ記16章ですが、敬虔なユダヤ教徒は特定の日に断食を行うことがありました。特に律法に厳格なファリサイ派の人々に至っては、週に二度の断食を行っていたということが、ルカ福音書の中に出てきます。そして洗礼者ヨハネの弟子たちも彼らと同じように、断食を大切な習慣として守っていたのです。
その彼らが、主イエスと弟子たちが大勢の徴税人や罪人たちと宴会の席に座って食卓に並んでいる色々な美味しい料理を食べて、ぶどう酒も飲んでいる(楽しくおしゃべりをしながら、歌を歌っていたかも知れません。)様子を見て、なぜあなたがたはファリサイ派や自分たちのように、断食の慣習を真面目に守らないのかと疑問を呈したのです。
Ⅱ:断食と婚礼
そもそも断食は、自らの罪を覚え、神のみ前にそれを悔い改めて赦しを乞う際に、食事を断つという苦しみを自らに課すことで、その悔い改めをよりはっきりと神に表そうとする行為でした。そのような悔い改めの断食は、個人が犯した罪に対してなされるのはもちろん、ユダヤ民族全体の罪が赦されて王国が興される日が一日も早く来るために、断食を守ろうとした人々もいたのです。洗礼者ヨハネの弟子たちも恐らく、そのような真面目な宗教心から断食という習慣を大切にしていたのでしょう。その彼らの目には、人々と飲んで食べて騒いでいる主イエスの様子が、あまりにも不真面目な態度に映ったのです。
そこでその彼らの批判に対して主イエスは、罪人たちと囲む食事の席を「婚礼」にたとえています。もし婚礼のお祝いの席に招かれた客が、自分は断食中だからと言って、出された料理に手も付けずにいたら招待した人に対して失礼です。そもそも悲しみを表す断食は、婚礼という華々しいお祝いの場所には似つかわしくありません。
ここで「花婿」と言われているのは、主イエスご自身のことです。そして「婚礼の客」は、主イエスと一緒に食事の席についていた人たち、とりわけ主イエスの弟子たちのことです。主イエスが共にいてくださる、一緒に食事の席について下さるというのは、結婚式のお祝いの席にいるような喜びの時間なのだから、その時にくらい沈んだ顔をしていたり、苦しい顔をして断食するのは似つかわしくないのです。
ファリサイ派の人々やヨハネの弟子たちが行っていた断食は、言ってみれば一種の苦行です。自分たちが肉体的な苦しみを耐えている姿を神に見てもらって、少しでも神の怒りを和らげ、罪の罰を軽くしてもらおうとする行為です。しかし主イエスは、罪人たちが悔い改めて、熱心に断食をしていたから、一緒に食事をされたのではありません。むしろ彼らが罪を悔い改める前に、主イエスの方から彼らに近づいて共に食事をされ、神の赦しが彼らのような罪人にこそ与えられることを示されたのです。その罪人に対する罪の赦しの宣言こそが、「福音(良い知らせ)」なのです。その良い知らせを聞いた者が、なおも神の怒りを和らげるために、自ら断食や苦行をする必要はありません。今は花婿である主イエスが共におられる喜びの日であって、その時に弟子たちは断食をして悲しむ必要はない、と主イエスは言われるのです。
Ⅲ:新しいものと古いもの
そして、後半の16節、17節に出てくるたとえは、どちらも、新しいものと古いものが対比されています。最初に出てくるのは、まだ一度も水に晒していない「織りたての布」です。そういう布を古い衣服の当て継ぎとして使えば、洗濯をしたときに新しい布だけが縮んで周囲に破れが出来てしまうことになります。
もう一つの新しい葡萄酒の場合も、発酵する力が強い新しいお酒を、弾力を失った古い革袋に入れておけば、膨らんで革袋が裂けてしまいます。新しい布は新しい衣服に、新しいお酒は新しい革袋に入れれば、どちらも台無しにならずに長持ちするのです。
これらの比喩において古いものとは、ファリサイ派やヨハネの弟子たちの態度です。つまり、神に対して熱心に祈り、断食し、捧げものをする、自分たちの真面目さや熱心さによって、神に喜んでいただき、それによって神に近づこうとするやり方です。
私たちキリスト者の中にも、主イエスの十字架によって罪赦されたことを知りながら、自らの罪を必要以上に背負い込もうとして苦しんでいる人がいます。それはある意味で、断食や苦行によって、神の怒りを和らげようとする人々と同じ古い生き方です。
Ⅳ:喜びの中で生きる
では、主イエスが来られたことによってもたらされた、新しい生き方とはどのようなものでしょうか。それは、私たちが善い行いをしたり、苦行を積んで神に近づくのではなく、神の方から差し伸べてくださる憐れみの手を、素直に握って喜んで生きるという生き方です。主イエスがこの地上に来られたことによって神の救いの約束が実現したのですから、私たちはそれをただ喜べば良いのであって、苦行をしたり、悲しんで暗い顔をする必要はないのです。もちろんそれは、私たちが自分の罪を軽く考えても良いとか、悔い改めなくても良いということではありません。主イエスによって罪を赦されたのだから、自分は何をやっても良いと言って、世の人々と変わらずに食べて飲んで、好き勝手に遊び廻るために、主イエスはこのようなたとえを離されたのではありません。
私たちは、罪深いこの私にキリストが目を留めて下さり、私を心から愛し、私のために命を捨ててくださったという、この世の儚い楽しみとは違う深い喜びに生きることが出来るのです。そして、そのキリストがこの私といつも共にいて下さるという喜びの中で生きること、それがキリスト者の新しいライフスタイルです。
Ⅴ:新しいぶどう酒を入れる革袋
主イエスが注いでくださる「福音」という新しいぶどう酒を、「アーメン」と言って素直に受け取る時に、その新しいぶどう酒は、私たちの古い革袋、自分の力や行いで神の憐みを得ようとする古い生き方を打ち破る力を持っているのです。
その私たちの新しい生き方を見て、きっと世の人々はヨハネの弟子たちのように問うでしょう。「あなたはなぜ、このような状況でなぜ断食しないのか。絶望しかない中で、なぜ希望を失わずに喜べるのか。」と。その時、私たちは「まことの救い主であるイエス・キリストが共にいて下さるのに、なぜ私たちは喜ばずにいられるでしょうか。主イエスはこれまでも、そしてこれからもいつも私と共におられます」と力強く答えることが出来る、新しい革袋なのです。