2023年01月15日 朝の礼拝「荒野に開かれた道」

問い合わせ

日本キリスト改革派 恵那キリスト教会のホームページへ戻る

2023年01月15日 朝の礼拝「荒野に開かれた道」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 3章13節~17節

聖句のアイコン聖書の言葉

3:13 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。
3:14 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
3:15 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。
3:16 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。
3:17 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 3章13節~17節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝の箇所で、イエス・キリストが洗礼者ヨハネの下を訪れます。ところがここで主イエスは、ヨハネが予想もしなかった行動を取られました。イエスはこの時、洗礼者ヨハネに洗礼を授けてくれるように願い出たのです。そこでヨハネは「私こそあなたから洗礼を授けて頂いて罪を許して頂かなければならないのに、その私があなたに洗礼を授けるのはあべこべではないですか」と問うたのです。それに対してイエスは【正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。】と述べて、今は何も言わずに自分に洗礼を授けて欲しいと促します。この「正しいことをすべて行う」という言葉は、直訳すれば「義を満たす」という言葉です。ここでイエスが述べている「義」は、人間が果たすべき「義」のことです。ここでイエスは「人間が行わなければならない正しいことをすべて行いましょう」とヨハネを説得したのです。

 そこでその言葉に従ってヨハネは洗礼を授けました。するとイエスに向かって「天が開いて」「神の霊」が鳩のように降ってこられました。さらにそこで「これはわたしの愛する子」という神の声が聞こえました。これらの現象はイエスだけに見えた主観的な体験ではありません。なぜなら、マルコやルカ福音書では「あなたはわたしの愛する子」となっているのに対して、マタイでは「これはわたしの愛する子」となっているからです。ですからこの天の声はイエスに語り掛けておられるのではなく、洗礼者ヨハネあるいは群衆に対して語り掛けられた言葉であるのです。

 この16節17節は、神様による視聴覚教育であるという事が出来るかも知れません。そしてこの教材には旧約の元ネタがあります。今朝のこのイエスの洗礼の箇所は、旧約聖書のイザヤ書がその下敷きになっています。イザヤ書11章は、「その上に主の霊が留まる」人を見たら、それが「若枝」のしるしだ、と述べています。「若枝」はダビデの王家から生まれると約束された救い主を指す言葉です。そしてこの若枝に頼る生き方こそ、私たち人間が為すべき正しい行いであるのです。
そしてもう一つ、マタイの御言葉に戻って16節には「天が開いて」という言葉がありますが
マルコ福音書では「天が裂けて」という表現になっていて、こちらがオリジナルの言葉です。
イザヤ書63章19節に【どうか天を裂いて下ってください。御前に山々が揺れ動くように】とありますが、イエスの洗礼において正しく「天が裂けて」神の霊が降るという出来事が起きたのです。
 そして神御自身の「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」という声が響き渡ります。この言葉の引用元の一つは詩編2編7節、そしてもう一つがイザヤ書42章1節です。
【見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。】ここでもやはり、その神の御心に適う者の上に“わたしの霊が置かれる”のです。今、主イエスの上にこのイザヤ書に書かれていた通りに、天が裂けて神の霊が降って来ました。そして“この者こそ「若枝」「わたしの愛する子」である”という神ご自身の宣言が語られたのです。

 さてこうして今朝はここまで、イエスの洗礼という出来事が、イザヤ書の預言を下敷きにしていることをご一緒に確認いたしました。そしてこのイザヤ書は、42章以降でもう一つの救い主の姿を語っています。それが「主の僕」と呼ばれる救い主の姿です。先程読んだイザヤ書42章1節は続けてこう語っています。【彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。】
 ヨハネはこの来るべき「若枝」は、良い実を実らせない木をすべて切り倒してしまう、そういう王であると考えていました。しかし実際に彼の前に現れた王は「傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すこともない」そういう愛と憐れみに満ちた慈愛と謙遜の王であったのです。

 この時、ヨハネのところに洗礼を受けに来ていた人々の多くは、決して裕福な人たちではありませんでした。貧しく、この世的な知恵や力のない者、そういう普通の人々がヨハネのもとに集まってきていました。あるいはその中には徴税人も含まれていました。そういう当時のユダヤの宗教者たちからは、神から全く縁遠いと考えられていた人たちと同じ場所に主イエスは立たれて、彼らと同じようにヨハネから洗礼を受けられたのです。この「神の愛する子」「若枝」は、世の人々に君臨する支配者や立派な律法学者や祭司たちの側に立つのではなく、世の弱い者、貧しい者、泣いている者、悔い改めを必要とする罪人のただ中に立たれたのです。そのような弱い者と共に立ち、彼らに仕える僕として現れた主イエスに、ヨハネは「あなたが私から洗礼を受けるのですか」と驚いたのです。
 
 ヨハネの水による悔い改めの洗礼の時代から、主イエスの火と霊による洗礼の時代、愛と憐れみによる罪の許しの洗礼を受けることが出来る時代が始まったのです。そして、イエスは何が人間としてなすべき正しい事であるのか、本当の価値がある生き方とは何なのか、そのことを身をもって私たちに示してくださいました。そして、十字架と復活によって私たちの前に立ち塞がる罪も死も滅ぼして下さり、私たちが進む道を荒野に切り開いてくださったのです。
 ですから私たちは、この主イエス・キリストのみを頼りとして、このお方の開いて下さった道を真っすぐに歩んでいくのです。そしてそれこそが私たち人間がなすべき、まことの正しいことのすべてなのです。そしてこの主イエスを信じて真の罪の許しを与えられる時に、神は私たちにも「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」この声を響かせてくださるのです。その神の言葉を、私たちは心から信じてよいのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す