今朝の箇所で一つの重要なキーワードとなっているのが「神の名前」です。
神社やお寺に祭られている神様や仏様には一人一人「名前」がつけられています。しかし私たちキリスト教会の場合は(イエスというお方は別にして)神を名前で呼ぶという意識はあまりありません。普段お祈りするときにも「天の神様」と呼び掛けることはあっても神の名前を呼んで祈るという習慣はありません。
しかし実は私たちは、普段は意識していないかも知れませんけれども聖書を読んでいる時に、実はこの神の名前を目にしているということにお気づきでしょうか。それが15節の後半にあります「主」という言葉です。
ここで「主」と訳されている言葉は「ヤハウェ」という言葉です。そしてこれが今朝の箇所で示された神の名前です。しかし日本語の聖書ではこれを普通「主」と訳しているので、私たちは普段意識せずにこの神様の名前を目にしているのです。
私たちが誰かに名前を付ける場合には、その相手を自分の支配下に置くという意味合いが含まれることになります。ですから私たちの方が神に名前を付けようとすることは、「神様とはこういうお方である」ということを、私たちが自分の頭で規定しようとすることでもあります。
しかし私たちは、神から教えていただかなければ、このお方がどういうお方であるかということを知ることは出来ません。ですからモーセは今朝の箇所で、民から自分を遣わしたお方の名前を訊ねられた時にどう答えればよいのかを、神御自身に訊ねた訳です。
そこでそのモーセの質問に対して神は、14節で【「わたしはある。わたしはあるという者だ」】とお答えになりました。この神のお答えは、出エジプト記の中でも特に解釈が難しい箇所の一つであります。そもそもこのヘブライ語の文章を日本語に翻訳しようとすると、うまく翻訳することが出来ません。
以前の口語訳聖書では「私は、有ってある者」と訳していました。しかし「有ってある者」という言葉は、わかるようでよく意味の分からない言葉です。そして新改訳聖書では「わたしは『わたしはある』である」と翻訳しています。恐らく日本語で直訳するとしたら、この新改訳聖書の翻訳が一番原文に近いかも知れません。
しかし「わたしは「わたしはある」である」という文章は、やはり日本語としては何か不自然な、よく意味の通らない文章になってしまいます。
たとえばこの「わたしはある」という言葉は「私は存在する」「生きている」という意味の言葉です。ですから神様はここで「わたしは確かに存在するのだ」と答えたという風に理解することも出来るかもしれません。
しかしモーセがここで民から問い掛けられることを想定している質問は、そういう「神はいるか、いないか」という問いではないのです。
そこで、私たちはまず相手の名前を知るという事から関係が始まります。互いの名前を知るという事なしに、本当に親密な関係を誰かと結ぶということは難しいのではないかと思います。そして相手をどう呼ぶのか(名字?名前?「何々さん」?呼び捨て?)、それによって相手のとの関係もおのずと分かるのです。神は18節では、エジプトのファラオに対してご自分を「ヘブライ人の神」と言い表しておられます。それに対してイスラエルの人々にはご自分を「あなたたちの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主」と呼んでおられます。
すなわち「あなたたちの先祖の神」という言葉は、イスラエル人とご自分の間にはアブラハムとの契約に戻づく神の民としての密接な関係を持っておられることを表しているのです。しかし一方でエジプトのファラオにとってこの神様はあくまで「ヘブライ人の神」であって、イスラエルの人々と結んでいたような深い関係は持っておられないということが分かります。そのように、神は自分がどのような存在であるか、特にご自分の民に対してどのような関係を持ち、どのように働きかける御方であるかを表す手段としてご自分の名前を告げられるのです。そうであれば、14節の「わたしはあるという者だ」という言葉で神様は、単にご自分の名前を答えているのではありません。ここで神は、ご自分とイスラエルの民と新しい関係を築こうと決意されたことを「わたしはある」という言葉で表しているのではないでしょうか。
では、ここで神様がご自分の民との間に築こうとしておられる「新しい関係」とは何でしょうか。そこで前回読んだ3章12節には次のような神の言葉がありました。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそわたしがあなたを遣わすしるしである。」この文章の「わたしはいる」という部分と、今朝の「わたしはある」という言葉はまったく同じ言葉です。ですから今朝の「わたしはある」という神様の言葉は、この12節の「わたしは必ずあなたと共にいる」という言葉を省略したものだと理解するのが、一番シンプルで分かり易い理解ではないかと思います。そう考えれば、ここで神様はご自分の命令に従うことを恐れているモーセに対して、もう一度「わたしはあなたと共にいる」と答えて、モーセを励ましているのです。そしてこの「わたしはあなたと共にいる」というあり方こそが、これからご自分の民に対して示そうとしておられる新しいご自分の民との関り方なのです。そしてその新しい関係の中で、神は16節以下で語られている通り、エジプトからご自分の民を導き出して、アブラハムに約束された土地カナンに導き入れるという新しい御業を行おうとしておられるのです。その民の救いを必ず成し遂げるという決意を、神様はここで「わたしはある」すなわち「わたしは必ずあなたと共にいる」という言葉によって表明されているのです。
そしてこの「わたしはある」というヘブライ語が、ギリシャ語になりますと「エゴ―・エイミー」という表現になります。今朝の新約朗読の中で、イエスは人々に『わたしはある。』と告げておられます。この「わたしはある」というイエスの言葉がまさしく「エゴー・エイミー」という言葉です。ですからここでイエスは、ご自分がこの「わたしはある」という者、すなわち神であるという事を宣言しておられるのです。そしてこのお方はやがて十字架の死から甦られた時、弟子たちに対して【わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる。】と約束されました。私たちがこの世の悩みや試練の中で恐れるとき、あるいは絶望に沈むとき、しかしその時、主イエスは「わたしは必ずあなたと共にいる」「わたしはある」と約束してくださっているのです。「わたしはある」という神の名は、このイエス・キリストというお方において、まさしく私たちの目の前に現実となって現れたのです。
ですから私たちは決して、名前も知らない遠い関係の神を信じているのではありません。私たちは「『わたしはある。』と言われる真の神を、イエス・キリストというお方を通して知っているのです。この主なる神を「知られざる神」でもなく、「ヘブライ人の神」でもなく、「わたしは必ずあなたと共にいる」というこの愛に満ちたお名前によって知ることが出来るでのです。
そしてこの愛なる神が、今度は私たち一人一人の「名前」を呼んで語り掛けていてくださるのです。そういう深くて親しい愛の関係の中で、私たちはこの地上の生涯を生かされているのです。