2023年01月29日 朝の礼拝「弱さを主によって用いられる場所として」

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2023年01月29日 朝の礼拝「弱さを主によって用いられる場所として」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
コリントの信徒への手紙一 12章12節~26節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:12 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。
12:13 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。
12:14 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
12:15 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
12:16 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
12:17 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。
12:18 そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。
12:19 すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。
12:20 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。
12:21 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
12:22 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
12:23 わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。
12:24 見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。
12:25 それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コリントの信徒への手紙一 12章12節~26節

原稿のアイコンメッセージ

今朝お読みしたパウロの手紙の宛先であるコリント教会は、道徳的、信仰的に多くの問題を抱えていた教会でした。ある霊的な賜物を与えられていた者たちは、その事を他の兄弟姉妹に対して誇り、そのような賜物を持っていない者を、自分たちよりも下に見ていたのです。そこで今朝の12章12節以下でパウロは、教会を一つの体にたとえて一つになることの大切さを説いています。
ここでパウロが書いていますように、私たち人間の体は、それぞれの見た目も機能異なる様々な器官が組み合わさって、バランスよく一つの体を造り上げています。それと同じように、教会という場所もまた、様々な異なる能力や経験を持っている人々が集まって一つの体(共同体)を形作っています。ですから教会は決して、一人一人の個性を否定して皆が画一的になることで、一つとなるのではありません。しかし反対にそれぞれが自分の考えに従って勝手に行動する個人主義者の集まりでもありません。神が私たち一人一人に与えて下さった個性や賜物を尊重しながら、同じ一つの共同体として調和して機能しているのが教会の本来の姿です。
 パウロは12節で体の例えを語った後、普通であれば「教会の場合も同様である」と書くべきところを「キリストの場合も同様である」と述べています。パウロはここで「教会はとキリストの体そのものなのだ」と述べているのです。教会はこのキリストによって一致しているという点において他とは異なる特別な集まりであると言うこことが出来ます。ここから私たちは、第一に教会の頭はイエス・キリストただお一人であるということを覚えることが出来ます。牧師や長老は、どのような意味においても教会の「頭」ではありません。私たちは皆同じキリストの体の一部なのです。牧師も長老も信徒も、皆同じキリストの体の一部として、教会の頭であるキリストに仕えていく責任があります。
 そして第二に、教会がキリストの体であるということは、そこに集められている私たちはそれぞれが皆キリストの体の一部として大切なかけがえのない存在であるということです。私たちは何か特別な賜物や役割があるから、教会にいる資格が与えられているのではありません。何か役に立つからではなく、神が愛されたて、キリストの体のあるべき場所に納められたからこそ、皆さんは教会にとってかけがえのない大切な存在なのです。それは裏を返せば「私はあの人よりも劣っている」とか「あの人と比べて賜物が少ない」と自分を卑下して、だから自分は教会に必要ないと考えることも間違いであるということです。
 むしろパウロは22節で「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」と述べています。パウロはここで「弱い人、他の人より賜物が少ない人であっても、そういう人も教会にいてもいい」と言っているのではありません。キリストの体である教会にはそういう「弱い人、弱さを持っている人が必要なのだ」「弱い人がいなければ、そこは教会とは呼べない」と述べているのです。世の様々な組織や共同体と、キリストの体である教会とが大きく異なる点がここにあります。

もし、色々な賜物を与えられている“強い人”が集められていたとしたら、私たちの教会は今よりもっと多くの働きを、効率よく行うことが出来たかもしれません。しかしそういう強い者ばかりが集められている教会は、果たして弱さの中にある人たちに共感して、寄り添うということが出来るでしょうか。
教会の中には病気の方やお年を召して教会の奉仕をすることが難しい方もおられます。しかし、そのようなこの世的には一見弱く見える人、何の力も持たないように見える人が、この私を覚えて、私のために祈ってくださる事で私たちがどれほど慰められ、勇気付けられるでしょうか。あるいは、これまでの人生の中で辛い経験をして様々な傷を負ってきた人だからこそ、今、弱さの中にいる人の痛みに共感することが出来たり、その人に寄り添う事が出来たりするのではないでしょうか。

私たちの中の比較的強く見える部分、人よりも優れていると思える部分だけが神の賜物なのではありません。強さだけでなく、私たちの中で弱く見える部分もまた、神は賜物として用いてくださることが出来るのです。そして神が私たちに与えてくださったそれらの賜物は、自分のために用いるように与えられているのではありません。他人のために用いるようにと与えられているのです。私たちがその賜物を惜しまずに隣人のために用いる事によって、教会はただ強い者が一方的に弱い者を支えるのではなく、弱い者がその弱さをも主によって用いられて、互いに支え合うことが出来る「一つキリストの体」として形作られているのです。

私たちはもしかしたら、いつか本当に何の働きも出来なくなって、誰かのために祈るという事すら困難になってしまうかも知れません。もしそうなってしまったら私たちはもう教会に必要ない存在なのでしょうか。いやそうではありません。私たちはたとえ自分が誰かのために祈るという働きが出来なくなったとしても、その私たちの弱さのために祈られるという働きをすることが出来ます。誰かから祈られるということで、私たちは最後までキリストの体として働くことが出来るのです。

最後に、私たちは苦しみの中にある時も喜びの中にある時も、決して一人孤独なのではありません。私たちには、私たちの苦しみや喜びを、自分の苦しみや喜びとして共有することが出来る兄弟姉妹が与えられているのです。そしてそのことに目が開かれる時に、教会には「あの人は自分とは関係ない」と言える相手は一人もいないということに私たちは気が付くのです。教会はそのように、私たちが私たちの弱さをも主に明け渡して、主によって用いていただく事が出来る場所、そして同じキリストの体である兄弟姉妹と苦しみも喜びも分かち合うことが出来る恵みの場所として与えられているのです。今日ここにいる皆さんもその大切な、かけがえのないキリストの体の一部なのです。

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