2023年02月05日 朝の礼拝「誘惑に打ち勝つ力」

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2023年02月05日 朝の礼拝「誘惑に打ち勝つ力」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 4章1節~12節

聖句のアイコン聖書の言葉

4:1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。
4:2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
4:3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
4:4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」
4:5 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、
4:6 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」
4:7 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
4:8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、
4:9 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。
4:10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」
4:11 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 4章1節~12節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝の箇所でイエスは、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」という悪魔の誘惑に対して、「人はパンだけで生きるものではない。」とお答えになりました。この言葉は、キリスト教会だけでなく一般の人たちにもよく知られている聖書の言葉の一つです。その場合、この言葉は「人は物質的に満ち足りればそれでよいというものではなく、精神的に満たされることを求めて生きる存在である」という意味で理解されることが多いのではないでしょうか。しかしそうは言っても私たちは「パン」、つまり食べるものが無ければ生きていくことは出来ません。現実においては私たちも神の言葉だけでなく、パン(この世の利益や物質的な必要)を求めなければならないのではないでしょうか。

 ではそもそも、聖霊はなぜこの時、イエスを悪魔の誘惑を受けさせるために荒野へと連れて行かれたのでしょうか。「誘惑をうける」「誘惑する者」という言葉は、本来は「試みる」とか「テストする」という意味の言葉です。ですから今朝のこの物語は、実はその悪魔の企みを通して、神御自身がイエスを試みておられると見ることも出来ます。神はこの時、悪魔の企みを用いて、ここで主イエスが本当に「これが私の愛する子、心に適う者だ」と言われた、その神の子としてふさわしいかどうかを試されたのです。ですから、悪魔は最初の二つの誘惑で「あなたが神の子なら…こうしなさい」と語り掛けているのです。
 そして聖霊が荒野でイエスを試みられたもう一つの理由は、人としてのなすべきこと、正しいことをすべて行うことが、神の子の為すべき働きであったからです。
 かつてイスラエルの人々が、エジプトの地で奴隷とされていた時、神はモーセを指導者としてお遣わしになり、エジプトから彼らを救い出して、イスラエルの地に導くと約束されました。ところが、その約束の地へ向かう旅の途中で様々な困難が起きると、イスラエルの人々の神に対する信頼は、すぐにぐらつき始め、彼らは神に背いた罪によって、四十年の間荒野をさ迷わなければなりませんでした。彼らイスラエルの民は神の試みに応えることに失敗したのです。そこで聖霊は、かつての神の民が成し遂げられなかった神の試みを神の子に成し遂げさせるために、イエスを今、荒野へと連れて行かれて悪魔と対決させているのです。
 この時イエスは時、四十日四十夜の断食をされて、空腹を覚えておられました。そしてそのような厳しい断食を終えられた時、悪魔が近づいてきて誘惑したのです。人となって地上に来られたイエスは、私たちと同じ完全な人間の体を持っておられました。肉体的な弱さにおいて、イエスは私たちと同じです。神の子だから空腹も苦にならなかったということではありません。聖書には「イエスが空腹を覚えた」と簡単に書かれていますけれども、しかしそれは単なる「空腹」ではなく、命の危険を伴うような激しい飢えと渇きであったのです。ですから悪魔の誘惑の言葉に対するイエスの「人はパンだけで生きるものではない」という言葉は、命がけの言葉であり決断であったはずです。

 この時のイエスの答えは、申命記8章3節の言葉の引用です。そこではエジプトを逃れたイスラエルの民の四十年に及ぶ荒野での生活が振り返えられています。そこでは「主があなたを苦しめ、飢えさせた」と語られている一方で、神は天からのパン、「マナ」を降らせて荒野で人々を養われたことが記されています。そしてそれらの事は「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」と述べられています。
 ですからこの言葉は単に「あなた方はパンに象徴されるようなこの世の利益を求めてはならない。そういう物質的なものではなくて、神の言葉をこそ求めなさい」と言っているのではありません。そうではなくて「主なる神はあなたがたにパンを与え、生きるのに必要なものを備えて下さるお方である。しかし神の恵みはそれで終わるのではなく、更にもっと大きな恵みを与えて下さるのだ。それが神の口から出る一つ一つの言葉である。」と述べているのです。

 神から「これは私の愛する子」と言われたイエスの歩みは、石をパンに変えて飢えを満たすような歩みではなく、たとえ自分が飢えと渇きに苦しまなければならないとしても、ただひたすらに神の言葉を追い求めて生きるという道でした。『人はパンだけで生きるものではない。』という主イエスの言葉は、そういう切実な現実の中で語られた言葉であって、決して哲学的論議として語られているのではないのです。それは最期にはあの十字架の死へと行きつくことになる命がけの言葉であり、命がけの選択、決断なのです。そして、この主イエスの弟子となった私たちもまた、私たちが生きている現実おいて、この主イエスが戦われた戦いを経験しなければならないのです。

 私たちは、様々な苦しみや困難に出会う時に、「人はパンだけで生きているものではない」と答えることが出来るでしょうか。むしろ、毎日の食事や生活の労苦、子どもの養育費や家族の病気や介護、そういう現実の問題に直面する中で、自分の人生のあらゆる事柄を支えていてくださるのは神であるということを忘れてしまいます。そして神に信頼するよりも、目の前の石をパンに変えるような手ごろな解決に手を伸ばそうとするのです。そのようにして私たちは、これまでに幾度となくこの悪魔の誘惑の言葉に屈して、石をパンに還るほうを選んで来たのではないでしょうか。
 しかし私たちが今読んでいるマタイ福音書は、そのように悪魔の誘惑に敗れて罪にまみれてしまった人間が、この主イエス・キリストによってもう一度新しくされて、再出発する物語です。本当の命に生きる真の人間として再創造されていく物語なのです。
 主イエスは、私たちに先立って悪魔の誘惑をご自分の身に受けられて、そしてそれに打ち勝ってくださいました。この主イエスこそが、私たちを本当の命に生かすことが出来る、真の命のパンであり、生ける神の言葉なのです。私たちはただこの主イエス・キリストにおいてのみ、本当の命を生きることが出来るのです。この命のパンを受けた私たちは、たとえ一時的に悪魔の誘惑に惑わされることがあったとしても、しかしもう決して以前の、石をパンに変えることに心を奪われて、真の命に飢え乾いていた空虚な人生に戻ることはありません。
 なぜでしょうか。それは私たちは、【わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。】と約束してくださるお方によって、今、この今日という一日を生かされている者だからです。

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