2023年02月12日 朝の礼拝「主を試してはならない」

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2023年02月12日 朝の礼拝「主を試してはならない」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 4章1節~11節

聖句のアイコン聖書の言葉

4:1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。
4:2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
4:3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
4:4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」
4:5 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、
4:6 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」
4:7 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
4:8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、
4:9 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。
4:10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」
4:11 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 4章1節~11節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は第二、第三の誘惑です。ここで悪魔は、第一の誘惑で父なる神様への完全な信頼と服従を表明されたイエスの言葉を逆手にとって「あなたがそれほど“神に信頼している”のなら、今この神殿から飛び降りてみなさい。神はきっと、そのあなたの信頼に応えて、天使たちを遣わして、あなたが地面に落ちて死ぬことが無いように支えてくださるでしょう」と言葉巧みに誘惑しようとします。
しかもこの時、悪魔は人気のない荒野の断崖絶壁ではなく、聖なる都エルサレムの神殿の屋根にイエスを立たせました。ユダヤ人にとって神殿は最も重要な聖なる場所である神殿で、天使に支えられてあなたが無事に地上に降り立つのを人々が目撃したら、きっと彼らはあなたが神の子であるということを信じるでしょう」とイエスを誘惑しているのです。
 その悪魔の言葉に対してイエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と答えて、その悪魔の要求を退けられました。主の命令によって荒野を旅していたイスラエル人は、そこに民が飲むことが出来る水がなかったために、指導者モーセに「我々に飲み水を与えよ」と要求します。その彼らイスラエルの民がしたように「主は我々の間におられるのかどうか」という疑いの心を抱いて、そしてその事を確かめるための証拠を求めることが「主を試す」という事です。

 私たちも恐らく、彼らと同じような状況に置かれれば「水を与えよ」と要求し、しるしを求めて主を試そうとするでしょう。現に私たちは、様々な苦しみや悩みの中に置かれる時に、聖書に書かれている約束が疑わしく思え、そのことを確かめるための「しるし」が欲しくなります。そして思ったようにしるしが与えられないと、その事に躓いてしまうということが起こるのです。
 しかし、物事が思い通りにうまく行かないから神は本当に共におられるのかと疑うという事も、反対に幸せであるということが、神が共にいて下さるしるしだと考えることも、それはどちらも神が私にとって役に立つお方、良い事をしてくださるお方だから信じるという思いが根底にあるのです。しかしそのような「主を試す」態度は、どこまで行っても生ける神との真の愛の交わりにはなりません。なぜなら信仰とは「試みる」ことではなく「信頼する」こと、あるいは「委ねる」ということだからです。
 イエスは「あなたの神である主を試してはならない」という御言葉で、神と真実な愛の交わりは、そのようなしるしを求める信仰によっては決して得ることは出来ないということをお示しになったのです。
 
 そこで最後に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行きました。そしてそこから「世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せた上で「ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と誘惑しました。ここで悪魔はイエス様に対してどのような誘惑をもちかけているのでしょうか。
 聖書には、やがて主イエスが神の子の栄光を帯びて再びこの地上に来られる時には、地上のあらゆる王国や人間がそのご支配の元に置かれると書かれています。しかしそのためには、あの十字架の死という苦みを通らなければなりません。十字架の死は、神の御子であるイエスにとっても、簡単にそれを受け入れることが出来ない苦しみです。むしろ、出来ることならこの杯を過ぎ去らせて下さいと祈らずにおれない苦い杯です。悪魔はその、イエスの最も恐れている十字架の死を引き合いに出して「何も神の子であるあなたが十字架の死という苦しみの道を通る必要はないじゃありませんか。それよりも私にひれ伏して私を礼拝してくれるなら、もっと早く簡単に地上に神の栄光を実現することが出来ますよ」と語り掛けて、イエスを十字架の道から逸らせようしたのです。

 その悪魔の誘惑の言葉に対してイエスはこの時「退け、サタン」という厳しい言葉を用いて、悪魔をご自分の前から去らせています。これは文字通り「私の前から去れ」という命令です。この言葉はこの後の16章では弟子のペトロに対して投げかけられています。ただし、イエスはサタンに対しては文字通り「いなくなれ」と命じているのに対して、ペテロに対しては、直訳すれば「私の後ろに去れ」という言葉で彼を戒めています。
 私たちは普通、自分が悪魔の誘惑に対してどう対抗するかという視点から、この荒野の誘惑の出来事を読みます。しかし私たちは、自らが悪魔からの誘惑を受けるだけでなく、私たち自身が悪魔と同じように十字架の道を妨げようとする「誘惑する者」にもなり得る弱さも持っているのです。
この荒野の誘惑において主イエスは、悪魔の誘惑と対決しながら、同時に私たちの持っている弱さを見つめています。そしてそれだけでなく、ご自身もその身に悪魔の誘惑を受けて激しい信仰の戦いを経験してくださったのです。ヘブライ人への手紙の著者は、そのことについて4章15節で「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」と記しています。

私たちは、イエスは神の御子だから悪魔の誘惑を受けても、眉一つ動かさずにそれを平然と退けたと考えるかも知れません。しかしこの荒野の誘惑の言葉は、主イエスを神の子の道、すなわち十字架の道から逸らせようとするものです。ですからそれを拒むことはすなわち「十字架の死」を選び取ることに他なりません。
 そして「私の望みではなく、あなたの御心を行わせてください」と祈り、自分の願いにではなくただ神に従うことを選び取ってくださった主イエスは、その言葉通り、十字架においてご自分の体を引き裂いて、命のパンとして私たちに分け与えてくださったのです。
 主イエスはその信仰の戦いに勝利して、十字架の死に至るまで従順に神に従い抜きました。そして私たち信仰者に先立って、私たちが進み行く十字架の道を切り開いてくださいました。更に、私たちが誘惑に負けてその十字架の道から逸れようとする時、あるいは私たち自身が誘惑する者になってしまう時に、「私の後ろに退け」と命じて、私たちを十字架の道へと引き戻してくださるのです。主イエスは弱い私たちに対して「私の前からいなくなれ」とは命じられません。「私の後ろに退きなさい」「十字架の道に戻りなさい」とお命じになるのです。この主イエスが命がけで歩まれた十字架の道の他に、私たちが悪魔の誘惑に最後まで打ち勝ち、命に至ることが出来る近道はありません。私たちがこの地上の生涯を終りまで、この十字架の道を歩き続けることが出来るように、今朝も主イエスは私たちに、私の後ろに退いて、私に従って来なさいと呼び掛けていてくださるのです。

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