2023年02月19日 朝の礼拝「暗闇に近づく光」

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2023年02月19日 朝の礼拝「暗闇に近づく光」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 4章12節~17節

聖句のアイコン聖書の言葉

4:12 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。
4:13 そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。
4:14 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
4:15 「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、
4:16 暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
4:17 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 4章12節~17節

原稿のアイコンメッセージ

 今月6日にトルコ・シリアで大きな地震が発生致しました。報道によれば現時点で、この地震による死者は4万5千人以上に上っているとのことです。そして最終的な犠牲者の数は今後更に増えていくと思われます。旧約朗読でお読みしたイザヤ書の中に「暗闇に座る民」「死の陰の地に座る者」という表現が出てきます。今回の地震によって愛する人を失った人たちは、まさにすべての希望を失って、「暗闇の中に」そして「死の陰の地に」「座り込んでいる」のではないでしょうか。それでは、聖書の言う「暗闇」とは一体なんでしょうか。そして「光」とは一体なんでしょうか。今朝はその事についてご一緒に御言葉に聞いてみたいと思います。

 今朝の箇所からイエス様は、いよいよ救い主としての公の働きを始めることになります。イエス様が宣教を始められる切欠となった出来事は、「洗礼者ヨハネが捕らえられる」という出来事でした。この時、ヨハネを捕らえたのはヘロデ・アンティパスは、自分の兄弟の妻であるヘロデアという女性に思いを寄せ、彼女を自らの妻としました。そして洗礼者ヨハネからその結婚を批判されたのを疎ましく思ったヘロデは、彼を捕らえて投獄したのです。
 そこで12節には、その知らせを聞いたイエス様が「ガリラヤに退かれた」と記されています。
しかし実際には、ガリラヤ地方は正にそのヘロデ・アンティパスが支配している地域でした。 この時、洗礼者ヨハネが投獄されたという知らせを聞いて、いよいよご自分が救い主として立つべき時が来たと悟られたイエスは、あえてそのヘロデが支配するガリラヤ地方を拠点として宣教の働きをスタートされたのです。
 ガリラヤ地方は、強大な国家であるアッシリア帝国を始めとする諸外国によって常に脅かされ、時に外国に占領されるなど、長い間、異民族の脅威に苦しめられていました。そのために、イザヤ書が書かれた時代には、この地域は「異邦人のガリラヤ」として、一段低く見做されていました。ですからイエスが、エルサレムから遠く離れた僻地ガリラヤで宣教を始められたことは、祭司や律法学者たちが、イエスがメシアであることを否定する根拠の一つともなりました。
 しかしマタイはここで、イエスがカファルナウムで宣教の働きを始められたのは、聖書の預言が実現するためだったと説明しています。
 しかし、イエス様の時代のガリラヤは、必ずしも異邦人の侵略に苦しめられていた訳ではありません。ローマ帝国の秩序を乱さなければ、自分たちの宗教的な儀式や礼拝を守ることが認められていましたし、ローマの繁栄の中でユダヤ人の生活も豊かになっていた時代でした。ですからこの時代、彼らは必ずしも「暗闇」や「死の陰の地に住んでいる」という表現には当てはまらないかも知れません。では、マタイが言う「暗闇」「死の陰の地」とは一体何を指しているのでしょうか
 それは17節【そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。】に、その意味を解く鍵があるのではないでしょうか。マタイ福音書における「天の国」という表現は、「神の国」と言い換えることが出来ます。そしてこの「国」という言葉は「支配」という意味も持っています。ですから「天の国(神の国)」とは、目に見えるような地上の形ある王国ではなくて、「神の支配が実現している場所」やその「状態」のことを指している訳です。
 そこで今や、ヨハネに予告されていたまことの救い主であるイエス御自身が「この私によって神の恵みの支配が正に今、この世界に実現しつつあるのだ」と宣べ伝え始めたのです。ですからこの神の支配を地上に実現するイエス・キリストこそが、暗闇に座りこんでいる人々が見る大いなる光なのです。そして、その暗闇を照らす光であるイエスは、人々に「悔い改めよ」と呼び掛けられました。そうであれば、マタイが言う「暗闇」「死の陰の地」とは、単に戦争や災害、この世の様々な思い悩みを指しているのではありません。それは、私たち人間の持っている罪の暗闇に他なりません。マタイはここで罪の暗闇の中に座り込んでいる人々が見る大いなる光、それが主イエス・キリストというお方なのだと述べているのです。
 私たちは、教会の交わりにおいては、穏やかで親切な良い自分でいられるかも知れません。しかし一歩教会の外に出れば、相手の過ちを簡単に許すことが出来ず、憎しみや怒りを心から消し去ることが出来ない現実があるのではないでしょうか。更に私たちの心の奥底を覗いてみれば、家族や友人にも見せることが出来ないような、暗くて醜い罪の心が隠れているのではないでしょうか。
 そういう私たちの心の中にある罪の暗闇、誰にも見せることが出来ないような本当に醜い汚れた魂、その私たちの「暗闇」を照らす大いなる光がイエス・キリストというお方なのです。そしてこの、世の光は、ご自分の方から私たちの所に近づいて来てくださる光です。私たちがひた隠しにしている罪の暗闇を照らし出して「悔い改めて、あなたのその罪の闇を私に明け渡しなさい。私の光をあなたの心に受け入れなさい」と語り掛ける光なのです。
 その時、私たちはもう、自分の善い行いや心掛けという小さな灯りで暗闇を照らす必要はありません。私たちが為すべきことは、その真の世の光を私たちの心に目一杯取り込むことです。自分の罪の暗闇を隠して、自分で自分を見栄えよくしようとするのではなく、この主イエス・キリストの前に自らの罪の暗闇を明け渡して、真の神に自分の向きを変えること、それが私たちのなすべきことなのです。
 主イエス・キリストが地上に来られて、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と宣べ始められたこの時から、この世界の暗闇に光が差し込み、暗い夜が明け始めているのです。そしてやがて主イエス・キリストが再びこの地上に来る時に、私たちの闇は完全に一掃されて、私たちはその主の大いなる光をこの目で見ることになるのです。その日が来るまで、私たちはこの主の日の礼拝において、世の罪の暗闇を照らす大いなる光を見ることが出来るのです。そして天の国、神の恵みのご支配が、私たちの現実となり、暗闇と死の陰の地に住む私たちが、神の救いの光によって照らされて生きる者に変えられていくのです。

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