今私たちが読んでいる出エジプト記のモーセの姿は、力強く人々を導くカリスマ的な指導者のイメージとは全く違っています。モーセは自らが犯した殺人が発覚するのを恐れてエジプトから逃げ出し、自分は人生の落伍者であるという失望感から、自分の子供に「寄留者(外国人)」と名付けるような弱々しい人物です。ここで描かれているモーセの姿は、私たち普通の人間と少しも変わりません。疑い深くてうつろいやすい、そういう普通の人間の姿がここには描き出されています。
ではモーセはなぜこの時、「私は必ずあなたと共にいる」という、神様の約束の言葉に信頼することが出来なかったのでしょうか。第一にそれは、彼の過去の失敗に対するトラウマに原因があったように思います。モーセは、かつて同胞であるイスラエル人から「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか」と言って拒まれたことがありました。その過去の失敗のトラウマを抱えていたモーセは、今度もまたあの時と同じように仲間は私を受け入れないだろうと考えたのです。
第二の理由は、彼が神様の命令と自分の能力を比べて、この使命は自分にはあまりにも荷が重すぎると考えたからです。モーセは10節で「自分は口下手で言葉数が少なくて、うまく人前で話が出来るようなタイプではありません。」と述べています。そしてだから自分はこの使命を果たすのに相応しくないと申し立てているのです。
そして第三の理由は、この神様の命令に従うことで、未来に対する明るい見通しを持つことが出来なかったという事です。イスラエル民族の父祖ヤコブとその一族がエジプトに移住してから、この時すでに400年以上の時間が流れていました。その間、民を導く指導者も預言者も現れなかったのです。そこでモーセが「自分は400年ぶりに先祖の神から遣わされたのだ」と言ったところで、人々がそんな言葉を信じるはずがないと考えたとしても無理もありません。
そこで、モーセに対して神様は、人々が彼の言葉を信じることが出来るように「しるし」をお与えになりました。第一のしるしは、モーセが手にしていた杖が蛇に変わるという奇跡、第二のしるしは、モーセが自分の服の懐に手を入れて出すと、その手が重い皮膚病にかかっているという奇跡です。それでも人々がモーセの言葉を信じない場合の「ナイル川の水を血に変える」という第三のしるしまで、神様はこの時用意しておられました。
しかし、それでも尚モーセは自分は「口が重く、舌の重い者なのです」という理由を持ち出して神様の命令を拒もうとします。ここで自分の能力不足を問題にしているモーセに対して神様は、そもそも私はあなたの能力の助けを必要としていない、それどころがお前が持っているものは、私がお前に与えたものではないかと述べています。
しかも神様はここで、口が利けなくなること、耳や目が使えなくなることもすべて「主なるわたしがするのではないか」と述べています。私たちが何かを「出来る」ということだけでなく、私たちが「出来ない」ということ、能力が誰かに比べて劣っているということ、それもまた私が与える賜物なのだと述べているのです。そして、その私たちにお与えになった賜物をすべてご存じの上で、相応しい使命を与えておられるのですから、「私にはそれを果たす能力がない」ということは神の召しを拒む理由にはならないのです。
そこでいよいよモーセは、神様の命令を拒むための口実が、なくなってしまいました。事ここに至ってモーセの取るべき選択肢はついに、神様の命令に従うか、あくまで拒むのか、のどちらかしかありません。しかしそこでもモーセは、前者の「神の命令に従う」ことではなくて、後者の「神の命令を拒む」という方を選びました。
そこでこの時、神様は、「ついに、モーセに向かって怒りを発して言われた」とあります。それはそうでしょう。様々な口実を並べて神様の命令に従うことを渋って、しかし神様がその一つ一つのモーセの言葉に答えてくださったのに、結局最後まで「出来ません」と答える頑ななモーセに対して、神様が「いい加減にしろ!」と怒りたくなるのは当然です。
しかしこの時、神様がモーセに対して怒りを発して言われた言葉は「いい加減しろ」という叱責の言葉ではなく、人前で雄弁に語ることが出来る賜物を持った兄弟アロンを助け手として与える、という言葉でした。ですから神様は、ご自分が「こうする」と決められたからには、その御心は、誰が何と言おうと必ず成し遂げられるのです。私たちの弱さや不信仰が、この神のご意思を曲げるということは出来ないのです。それどころか、弱く不信仰な私たちをさえ用いてご自分の御業を実現されるのです。
翻って私たちはどうでしょうか。私たちもまた、信仰生活において、今朝のこのモーセのように、恐れに囚われて、神様の召しを断ったり、その命令に答えることを拒んでしまうことがあるのではないでしょうか。そんな風に自分に与えられた神様の召しを拒んでしまうとき、私たちは「次こそは神様の召しに答えます」と決意します。しかし実際に次の機会が来ると、やはり恐れを捨てることが出来ずにまた神様の召しを拒んでしまうのです。
しかし神様は、そういう弱く不信仰な私たちを、見捨てることも、「もう勝手にしろ」と言って匙を投げてしまうこともなさいません。神様は決して私たちをあきらめず、その呼びかけに答えることが出来るように、丁寧に一つ一つ私たちの恐れを取り除いてくださり、その恐れを信仰へと変えていってくださるのです。この時、神様がモーセの助け手として与えられたアロンは、完全な意味においてモーセの助け手とはなりませんでしたが、しかし神様は、私たちに完全な助け手としての主イエス・キリストを与えてくださいました。そしてこの主イエス・キリストご自身が「わたしは世の終わりまで必ずあなたと共にいる」と約束して下っています。
私たちはなお、自分自身でこの約束に信頼して一歩を踏み出す力はありません。しかし主イエスは何度でも私たちに語り掛けて、私たちの弱さや不信仰に最後まで向き合って、約束の地へと導いてくださるお方なのです。この主イエスにあって私たちは、過去の失敗や、自己否定、そして未来への不安を乗り越えて、新しい一歩を歩みだすことが出来るのです。そしてそれぞれに与えられている神の召しに答えて歩みだすときに、そこで私たちは「私はあなたと共にいる」という神の言葉を、私自身の体験として経験することが出来るのです。