今朝お読みした4章18節から25節は、新共同訳聖書では二つに段落が区切られています。最初の段落では、二組の漁師の兄弟がイエス様に召し出される「弟子の召命」が語られています。しかし、他の福音書で語られている弟子の召命の経緯とは、いくつかの点で異なっています。マタイはここで、イエス様と漁師たちが以前から面識があったとか、彼らの前で奇跡を行ったとは書いていません。ただ、イエス様が漁師たちをご覧になって、彼らにと呼び掛けられたこと、その呼び掛けに答えて漁師たちがすぐに従った事実だけを報告しています。
ユダヤ教では普通、先生が生徒を選ぶのではなくて、弟子が学びたい先生を選ぶのが一般的でした。ところがここでは、イエス様の方から「わたしについて来なさい」と声を掛けておられます。私たちが主の弟子となる時、それは常に私たちの側ではなくイエス様からの働きかけによって始まるのです。しかもその時もイエス様は選ばれた理由については一切を説明されません。 その代わりにイエス様は、彼らをどのような道へ導こうとしているのか、「召命の目的と使命」について明らかにしておられます。それが「あなたがたを、人間をとる漁師にしよう」という言葉です。
「人間をとる漁師にしよう」とは、決して「あなたがたを牧師にしよう」とか「律法の教師にしよう」と言われているのではありません。イエス様はここでご自分の弟子にするために彼らを呼び出しておられるのです。キリストの弟子とは、決して牧師や伝道者だけを指すのではありません。主イエスを信じた者は皆、「キリストの弟子」となるのです。イエス様はすべてのご自分の弟子とされた人を「人間をとる」働き、すなわち主イエスの福音を人々に証しして救いへと招くという働きへ召し出されているのです。
そして実際に、マタイ福音書の終りのところでは復活されたイエス様が「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じておられます。そのイエス様の命令によって、今日の「あなたがたを、人間を獲る漁師にしてあげよう」というイエス様の約束が実現したのです。ガリラヤの漁師に過ぎなかった弟子たちが、世界中からキリストの弟子となる人々を呼び集める「人間をとる漁師」として働くことになった、これこそがたくさんの魚が網にかかる以上の奇跡なのです。
弟子たちがそのような人間をとる働きへ召し出されるためには、様々なものをそこに残して、主イエスの後ろに「従っていく」ということが必要でした。私たちが「イエス様を信じる」という事は、私たちが「イエス様の後に付いていく、従っていく」ということと同じことです。この「従う」ことを「献身」とも言います。
牧師であろうと漁師であろうと、主イエスを信じてキリストの弟子となった者は、誰もが自分と自分の生涯をすべたキリストに捧げた「献身者」なのです。その召しの重さは、牧師であろうと他の職業であろうと差はないのです。また「献身」とは自分のある一部分を取り分けて神に献げるという事でもありません。私たちは三百六十五日、二十四時間キリストの弟子なのであって、私たち信仰者の生涯においてキリスト者の看板をおろしてもよいという意味でのプライペートな時間というのはないのです。
教会に来て礼拝をしている時はもちろん、私たちが職場で同僚や顧客に接している時も、家で夫婦や親子で同じテーブルに囲んでいる時も、友人や恋人と向き合っている時も、そういう私たちの普段の日常の生活の中で、私たちがキリストの弟子として生きるということ、それが、私たちが「献身する」ということなのです。
そして今日お読みした箇所の後半には、もう一つの「献身者」の姿が描かれています。それが23節以下に登場する主イエスの元にやって来た人々です。先程の弟子たちの召命においてイエス様は、漁師たちが、普段の漁師としての仕事をしている日常の場面に現れて、彼らに声をお掛けになりましたが、今度は、人々が抱えていた病気や苦しみという現実の問題の只中に来られて、そこで福音を人々に語られました。主イエスはそのように、私たちの普段の日常の中に入ってこられて、そしてそこで私たちが従うことを求めておられるのです。
そこで私たちも、主イエスに従うために何かを「捨てる」ということが必要になります。それはもちろん単純に仕事をやめろとか、家族を捨てろと勧めている訳ではありません。しかし、私たちがキリストの弟子として、主イエスに従うということは、自分の大切にしているものを手放すということなしには出来ないのです。それが具体的に何であるかは、人それぞれによって違います。それは一人一人が、信仰生活と祈りにおいて、神様に聞き続けていかなければならないものであると思います。それは、最終的にマタイ福音書の16章でイエス様が弟子たちに言われた「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という命令に行きつくことになります。そこで私たちが捨てなければならないものは、突き詰めて言えば「自分自身」ではないでしょうか。自らの人生に、王として、神として君臨している「自分」という神を捨てるという事なしに、真の神に従うことは、決して出来ないからです。
そしてこの時、ペトロたち漁師にそれまでの生活を捨てさせて、主イエスに従わせたのは、彼ら自身の信仰や決断力ではありませんでした。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた主イエスの言葉にこそ、彼らに捨てるべきものを捨てさせて、ご自分に従わせる権威と力があったのです。そして「教会」を意味するギリシャ語は、この「呼ぶ」という言葉が元になっています。その言葉の本来の意味は「呼び集められた者たち」という意味です。教会は、「わたしについて来なさい」と呼び掛けるイエス様の御声を聞いて、その呼び掛けに応えて、キリストに従う者たちが集められた群れです。そして主の声に呼び集められた私たちが、またそれぞれの場所へ遣わされて行って、そこで人間をとる働きをなし、そこでまた新たにキリストに従うキリストの弟子が生まれていく。そのようにして、教会は成長していくのです。
今朝のこの、漁師たちに起こった「弟子の召命」という出来事は、今も私たちの現実において実際に起っている出来事なのです。主イエスは今も私たちに、聖書の教えを語り、御国の福音を告げ知らせておられます。そして「わたしについて来なさい」と呼び掛けておられます。私たちはこれからも、その主の呼び掛けに応えて、自らが手放すべきもの、捨てるべきものを置いて、主イエスに従っていく者でありたいと願います。そしてその私たち「人間をとる者」を通して、さらに多くの人々が主イエスの救いへと招かれて、キリストの弟子となり、今週も神の国がこの地上に、私たちの日常において、ますます広がっていくのです。