2023年03月12日 朝の礼拝「山上の説教」

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2023年03月12日 朝の礼拝「山上の説教」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 5章1節~12節

聖句のアイコン聖書の言葉

5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
5:5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 5章1節~12節

原稿のアイコンメッセージ

 マタイによる福音書は、今朝の5章から7章の終りまで、主イエスが語られた長い教えが続きます。3節から12節まで続く「幸いについての教え」は、新共同訳聖書では「こういう人は幸せである」という文章が続いていきますが、元々の聖書の原文では、始めにまず「幸いな人だ」という言葉が来ます。ある研究者は、この最初の言葉を「おめでとう」と訳しています。
 主イエスはここで弟子としての様々な条件を並べた後で、それに従う者は「幸いである」とは言わず、「あなたがたは幸いだ」と述べてから、この山上の説教をお語りになったのです。主イエスに従って生きることは、今よりも善いことをたくさんすることが出来るようになることが目的ではありません。私たちを「大いに喜んで生きることが出来る、幸いな者とする」事に本来の目的があるのです。これから私たちはしばらくこの山上の説教を読み進めていくことになりますが、そこで主イエスがこの教えを「幸いなるかな」という言葉から語り始められたことを心にとめておきたいと思います。
 
 さて、山上の説教の冒頭で主イエスが「幸せ」というテーマを取り上げられたのは、注目に値します。人類は長い間、「幸福、幸せとは何か」その答えを探し求めてきました。しかし皆が納得できるような「幸福の定義」や「幸せになる方法」を見出すことが出来た人は誰もいません。
ところが驚くべきことに、ここで主イエスは、その「幸せ」という永遠のテーマについて実に簡潔に「幸せな者とはこういう人たちの事だ」と語っておられるのです。
 しかも、そこで主イエスが語られる「幸いな人々の姿」は、私たちが思い描く「幸い」とは違っています。ここで「あなたがたは幸いだ」と言われているのは、「心の貧しい者」「悲しむ者」「柔和な者」「義に飢え乾く者」「迫害されて、身に覚えのないことで悪口を浴びせられる者」です。この世の様々なものの中に幸せを探し求めている私たちに対して、主イエスが「本当の幸せはここにある」と言って指し示すのは、およそ私たちの考える「幸せ」とはほど遠いものばかりです。

 主イエスはここで、心の持ちようを変えることで、不幸せな現実を幸せだと受け止めることが出来るという「心構え」を教えているのでしょうか。もしそうだとしたら、主イエスの教えは巷に溢れている自己啓発本の類とそれ程変わらないことになります。
 あるいはあなたがたは地上の人生においては不幸だけれども、死んで天国に行けば幸せになれると語っているのでしょうか。もし私たちキリスト者が抱いている希望が、そのような死後の世界における希望だけに限定されるのだとしたら、その希望はそういう世の中の人が漠然と死後の世界に抱いている希望とさほど変わりません。4節から9節にある「慰められる」「地を受け継ぐ」と言った幸いの理由を説明している言葉は、どれも未来形が使われています。ですから、ここで語られている幸いは、やがて将来に起こる出来事として語られています。しかし3節と10節の「天の国はその人たちのものである。」という言葉は未来形ではなく、現在形の言葉によって語られています。そしてこの3節と10節が、全体を貫く大枠の役割を果たしています。ですから、主イエスはここで、ご自分に従って生きる者の幸いを、単に今の現実から遠く離れたはるか彼方にある幸いとして語っているのではありません。ここで主イエスが語っておられる逆転現象は、確かに将来の神の国において完成するのですが、同時にそれは今の私たちの現実の只中にも起こっている幸いでもあるのです。

主イエスは、病や患いに悲しむ者、貧しい者、弱い者のところに赴かれて、彼らを癒し、慰めてくださいました。そして罪人として忌み嫌われていた人々のところに行って、彼らと共に食事をされました。しかしやがて主イエスはその群衆たちに拒まれて、弟子たちからも裏切られ、見捨てられることになりました。そして世の権力者たちの手によって十字架での無残な死を遂げられました。その最も暗く悲惨な現実、私たちが到底幸いを見出しえない十字架の暗闇の中で、しかし主イエスは私たち罪人の罪の贖いという幸いを創り出してくださいました。その十字架の主が、今私たちが苦しんでいる現実の貧しさ、悲しみ、嘆き、怒り、迫害、そのような人間の最も暗い場所にもおられ、そしてそこで幸いを生み出してくださるのです。主イエスはそのような、今この現実の暗闇の中にある「主にある幸い」について語っておられるのです。

幸いという事について、詩編1編の冒頭に有名な言葉があります。
「いかに幸いなことか。神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。」
神から遠く離れて、神に逆らい罪ある者の道にとどまっていた私たちが、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむようになり、神様との真の愛の関係を取り戻すことが出来る時、それに勝る幸いはありません。その時、私たちは貧しさの中にあっても、悲しみの中にあっても、あるいは迫害の中に置かれても、そこで「幸いなるかな」という主イエスの祝福の言葉を聞くことが出来るのです。

山上の説教は、この幸いを主イエスから与えられた新しい神の国の民に告げられた律法です。私たちは確かに、自分の力や信仰によっては、ここに書かれている戒めに従うことは出来ません。
しかし、主イエスを信じて、このお方に従っていく時に、主は私たちに神の霊である聖霊を注いでくださり、その聖霊によって、この主イエスの教えに生きる新しい神の民の姿に変えられていくのです。

 今、この礼拝に集められている私たちは、山の上で腰掛けられた主イエスに近寄って、その周りに腰を下ろした弟子たちです。そして主イエスの教えを聞く山上は、正に今私たちが守っているこの礼拝のことです。礼拝において私たちはキリストの弟子として呼び集められ、主イエスの後に従っていくために、このお方の教えに真剣に耳を傾けるのです。これから主イエスは、山上の説教の御言葉を通して、私たちの心にも、新しい神の民の律法を刻むために、口を開いて語りかけようとしておられます。そして主イエスに大胆に近づいて、その幸いな御言葉に聞き続ける私たちに、主イエスは今朝も「幸いな者よ、天の国はあなたがたのものだ」と語り掛けてくださるのです。

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