ルカ福音書6章には、山上の説教とよく似た「平地の説教」という教えがあります。この二つの説教はどちらも「幸いについての教え」から始まっていて、共通した教えが多く見られます。一方で山上の説教では「心の貧しい人々」「義に飢え乾く人々は幸いである」となっている言葉が、平地の説教では「貧しい人々・・・」「今飢え乾いている人・・・」となっていて、平地の説教と比べて山上の説教では、どちらかと言いば心の問題が強調されています。
8節にはもう一度「心」という言葉が出てきますが、この「心」と、3節で「心」と訳されている言葉は異なるギリシャ語が使われています。3節で「心」と訳されている言葉は、他の箇所では多くの場合「霊」と訳されています。3節を直訳すれば「霊に関して貧しい人々は幸いである」という文章です。聖書において「霊」とは、単に精神的な要素としての「心」のことではありません。それは人間の心と体の両方を含んだ「存在そのもの」、私という存在の中心、核となるものの事です。マタイは、そういう私たちの存在そのものが持つ根本的な貧しさということを問題にしている訳です。そして更に言えば、この「霊」という言葉によって、特にここでは「神との関係における貧しさ」というものが見つめられているという事が出来ます。
私たちが普段「貧しい」という言葉を使い場合、その貧しさには幾つか程度があります。「私は貧乏で貧しいんです」という時に、それは必ずしも今晩の食事にも事欠くようなそういう貧しさであるとは限りません。「どこかの会社の社長と比べれば貧しい」という貧しさもある訳です。しかし、ここで主イエスが言われている「貧しさ」は、そういう本当は持っているのに、何もないように謙遜して見せるというような余裕のある貧しさではなく、本当に何もない完全に欠乏している状態のことです。
続く4節にある「悲しむ人々」、更に6節にある「義に飢え渇く人々」、これらはどちらも、やはりその3節の「霊の貧しさ」「神との関係の貧しさ」という事と関連しています。この世の悲しみや苦しみは、神との関係の貧しさによって生まれます。そしてこの世の不正や差別、そういう不正義に苦しむことも神との関係の貧しさにその根本的な原因があるのです。
ただ5節で「柔和な人々は幸いである」と言われている、この言葉だけは少し他の言葉と毛色が違っているように思えるかもしれません。「柔和な人」つまり物腰の柔らかい優しい人柄の人は幸いであると言われれば、素直に納得することが出来るのではないでしょうか。ただし、ギリシャ語訳旧約聖書でこの「柔和」というギリシャ語が用いられるとき、その元となるヘブライ語は、やはり「貧しさ」や「欠乏」を意味します。詩編37編は、そのようなヘブライ語における柔和な者がどのような人であるかが語られている、典型的な例の一つです。ですから5節の「柔和な人」とは、この世の悪や迫害の中に置かれている人であり、そのような逆境において主に望みを置いて耐え忍んでいる人のことです。ですからそれも3節の「貧しい」ということと同じことを述べているという風に理解することが出来るでしょう。
貧しいことや悲しむこと、逆境に耐え忍ばなければならないこと、それらはどれも私たちにとって決して喜びでも幸福でもありません。むしろ私たちが考える幸福とは、この世において「豊かで満ち足りているということ」「毎日を喜んで楽しく生活すること」「物事が順調にうまくいくこと」です。主イエスはここで、そういう私たちの幸福の価値観に対して挑戦しておられるということも出来ます。
私たちは誰しも自分が幸福になることを求めています。自分の愛する者が幸福な人生を歩んでくれることを願っています。しかし主イエスは、そういうこの世の幸福に目を奪われて、追い求めている私たちに「今、あなたが追い求めているものは、本当にあなたを生かす真の幸いなのか」と問い掛けておられるのです。
もちろん、「貧しい」ということは、それ自体が喜びとなるのでも幸福なのでもありません。私たちの持っている貧しさは「私には何もありません」と謙遜に遜って見せることが出来るような軽い貧しさではありません。それは人生に神がおられないという貧しさです。神との真実の交わりがない、この世の悲しみや逆境の中で、本当に頼るべきお方を持たず、本当の救いを見出すことが出来ない、そういう神無き空虚な人生を生きなければならない「貧しさ」なのです。
現代のこの豊かな、満ち足りた社会において、その人間の持っている貧しさは少しも変わらずに私たちの現実を支配しています。そういう神無き貧しさの中で苦しみ、あえいでいる人に対して、主イエスは「だからあなたがたは幸いである」と語り掛けておられるのです。なぜなら、彼らは「慰められ」「地を受け継ぎ」「満たされる」からです。そしてそれらの幸いは、「天の国を与えられる」という一言に集約されていきます。
ここには、この世の価値観との逆転があります。この世の幸いによって満ち足りている者は神との関係の回復を求めません。またその心には神の憐みを受け入れる余地がありません。しかし真の貧しさに生きる者は、ただ神の憐れみを求める以外には、その貧しさを埋める手段を何も持っていません。そして神は、確かにそのような真の貧しさの中に生きている人を憐れんでくださる、だから幸いなのです。心の貧しい人々が幸いであるのは、心が貧しいから幸いなのではなく、その心の貧しい者を神が憐れんで下さり、その人に天の国を与えて下さるから幸いなのです。
この時、主イエスの言葉を聞きに集まって来ていた群衆の中には、病気や患いを癒してもらおうとして集まってきた人々が大勢いました。彼らは正に今現実に、経済的な貧しさやうえ渇きをを抱えている人々でした。その彼らに向かって、一体だれが「あなたがたは幸いだ」と言う事が出来るでしょうか。この言葉は、十字架の死によって、正に命がけで彼らに幸いを与えようとしておられる主イエス・キリストというお方だからこそ語ることが出来る言葉です。
何の誇るべきものない、謙遜に遜る価値すら持たない者、真の貧しさの中悲しみ、飢え乾いている者たちに、天の国を与え、神と共にある真の幸いを与えるために、主イエスはご自分の命を十字架で捧げてくださったのです。
私たちはこの地上の生涯において、この主イエスにあって神との愛の関係を取り戻して、この神の愛の支配の中を生き始めているのです。そこにこそ、私たちの真の幸いと喜びがあります。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」この主イエスの言葉に耳を傾ける私たちは、確かに幸いな者なのです。