2024年04月07日 朝の礼拝「命のことば」

問い合わせ

日本キリスト改革派 恵那キリスト教会のホームページへ戻る

2024年04月07日 朝の礼拝「命のことば」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
ヨハネの手紙一 1章1節~5節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――
1:2 この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――
1:3 わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。
1:5 わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネの手紙一 1章1節~5節

原稿のアイコンメッセージ

 この手紙の冒頭には、通常の手紙にあるような差出人や受け取り人の名前が書かれておらず、いきなり序文から書き出されています。
 「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。」
 この手紙の書き出しの言葉は、ヨハネ福音書1章1節の、あの有名な書き出しの言葉を思い浮かべられると思います。ヨハネ福音書の「言」は、神の言葉である御子イエス・キリストの事を指しており、この言は父なる神と共に万物を作られた「神」でもあります(3節)。ですから福音書の「初めに言があった」と言われている「初め」は、まさに世界が創造される以前のその「永遠の初め」を指しています。

 では、この第一ヨハネの中で「初め」という言葉がどのように出てくるかと言いますと、2:7「わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく…初めから受けていた古い掟です」、あるいは3:11「互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです」など、この場合の「初め」は、命の言が手紙の読者に伝えられた「初め」を指しています。ですからこの手紙の冒頭で「初めから」と言われているのは、彼らが先輩の信仰者からキリストの福音を初めて伝え聞いた時のことを指しています。そしてその彼らが使徒たちから福音を伝え聞いた最初の時から、その福音の中心におられた神の言イエス・キリストについて述べようとしているのです。

 そこでその、彼らが伝え聞いた初めから、福音の中心にあった「命の言」について、著者はそれを「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」であると表現しています。2節の「証しする」という言葉は、裁判において証人として証言するときに使われる言葉です。「百聞は一見にしかず」という諺がありますが、誰かの証言が最も説得力を持つのは、自分の目で直接見たり、耳で聞いて体験した事を証言する場合です。イエス様が地上におられたのはおよそ三十数年という短い期間で、活動範囲は大半がガリラヤ周辺に限られています。人類の長い歴史においてそれは、本当に僅か時間です。ですからイエスの近くにいて、この御方と本当に深く接する事が出来たのは、直弟子たちをはじめとする一握りの者たちだけだったでしょう。
 仮にこの手紙が使徒ヨハネによって書かれたのであれば、確かに地上におられるイエス様を「聞いて、見て、触った」と証言する資格が十分にあります。あるいはヨハネの教えを受けた、あるいは彼の直接の証言を聞いた後継者たちによって書かれたものであったとしても、やはりその証言にはリアリティがあります。しかしそのようにイエスと直接触れ合った弟子たちの中には、あの裏切り者のイスカリオテのユダも含まれていました。あるいは、律法学者やファリサイ派の人たち、総督ピラトやローマ兵も、実際にイエスを目で見て、その話す言葉を聞く機会があったでしょう。
 しかし結局のところ、彼らの中でこの御方を十字架の死に至るまで信じる事の出来た人は、誰もいませんでした。三年半の間、寝食を共にした弟子たちでさえ、十字架を前にしてイエスを裏切り、逃げていったのです。そのイエスの死後、弟子たちがユダヤ人の指導者を恐れて、家の中に閉じこもって隠れていると、そこに甦られたイエス・キリストが現れたのです。この復活の主イエス・キリストと出会った弟子たちこそが、神の言であるキリストを確かに「目で見て、耳で聞いて、手で触れて触った」のです。

 皆さんも初めて聖書を読んだり、教会に来てお話を聞いた時に、それらの話はちんぷんかんぷんだったかも知れません。「神が人間になどなるはずがない。」「二千年前の昔に死んだ人間と今の自分に何の関係があるのか。」そのように御言葉を受け入れる事を拒んでいた私たちが、しかしある日、その言葉によって心を捉えられ、主イエスを信じるという経験をするのです。それは正に、私たちが聖書の御言葉を通して、目には見えないけれども、確かに今も生きておられる復活のキリストの姿を「見て」、その語り掛ける声を「聞いて」、その御体の傷に触れるという経験をしたからこそ、私たちに起きた変化なのです。聖書の御言葉は、聖霊がそれを私たちに神の命の言として指し示す時に、二千年前の時を超えて今、この時に私たちに語られている命の御言葉として語り掛けるのです。そして私たちは、その命の言を通してキリストから流れる永遠の命を注ぎ込まれるのです。
 
 最後にヨハネは、自分が命の言を伝えているのは、あなた方を交わりへと招くためであり、それによって喜びが満たされるためであると語っています。交わりという言葉は「コイノニア」というギリシャ語で、「一つのものを互いに分け合う」という意味の言葉です。教会は、同じ血が流れる同じ命を持つ兄弟姉妹によって形作られる“一つの体”であると言えるのです。
 私たちはこの地上においては、聖書の御言葉と共に、この主にある兄弟姉妹との命の交わりにおいて、イエス・キリストの姿を示されるのです。私たちの信仰の歩みは、この愛する兄弟姉妹と命を分かち合い、喜びや痛みもすべてを分かち合いつつ、世の暗い旅路も共に喜び歌いつつ歩むことが出来る旅路なのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す