2024年04月07日 朝の礼拝「罪人を招くために」

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2024年04月07日 朝の礼拝「罪人を招くために」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 9章9節~13節

聖句のアイコン聖書の言葉

9:9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
9:10 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。
9:11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
9:13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 9章9節~13節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:徴税人マタイの召命
 今日のお話は十二使徒の一人、徴税人マタイの召命の出来事です。「徴税人」はローマ帝国に雇われて、同胞であるユダヤ人から税金を取り立てることを生業としていた人々です。しかし徴税人たちは、ローマ帝国が決めた額以上の税金を人々から人々からだまし取って、その差額を自分たちの収入として着服するということが横行していたようです。しかも彼らは、ローマ帝国の手先となって税金を仲間たちから取り立てる裏切り者です。ですから徴税人は、決して救われることのない罪人として、ユダヤ人から憎まれ、忌み嫌われていました。
 今日のお話に登場するマタイもまた、このガリラヤ地方を治めるヘロデ・アンティパスに仕える徴税人でした。ところがそのマタイの前に、イエス・キリストが現れて、ご自分からマタイを「ご覧になって」「私に従いなさい」と声を掛けたのです。しかもこの時主イエスは、マタイが収税所で座って、実際に不正と欲望に満ちた仕事に手を染めている場面を目撃されたのです。この徴税人が、実は心の内では自らの罪を悔いていたとか、そういうもっともらしい理由は、ここでは何一つ示されていません。この主イエスの選びの規準は、私たち人間が考える善悪の規準とは全く異なるものであって、それは「人間の理解を超えた神の選び」としか言いようのないものです。  

Ⅱ:回心と召命
 そして当のマタイもまた、この言葉を聞くとすぐに立ち上がって、主イエスのあとに従ったのです。ここでもこの福音書は、そういうマタイの心の動きや、主イエスに従った動機については、何も触れていません。前回の中風の男性の癒しの奇跡でも、中風の男性が信仰や悔い改めを示す前に、主イエスの憐みが先立っています。そして、それは人間の理屈によっては説明することの出来ない、正に神の奇跡としか言いようのない出来事なのです。今日の箇所で描かれているマタイの召命と回心という出来事もまた、その中風の病の癒しと同じように、理屈では完全に説明することの出来ない、神の奇跡として描かれているのです。
 信仰とは、何か私たちが、理屈を積み上げていって、その先の結論として辿り着くことが出来るのではなくて、むしろ私たちがそういう人間の理屈によっては到達できない場所へ、キリストによって招し出されるという神の奇跡なのです。そしてこの時マタイに起こったのは、正にそういうことでした。

Ⅲ:魂の医者
 この時、主イエスの招きに答えて弟子となったマタイは、主イエスと弟子たちを自分の家に招いて食事を振舞いました。そしてその食事の席には、他の徴税人や罪人たちも同席していました。敬虔なユダヤ教徒たちは、このような人々と交わりを持つことを嫌い、一緒に食事の席に着くことはあり得ませんでした。そこでファリサイ派の人々は、弟子たちに「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言って、主イエスを非難したのです。ファリサイ派々にとって「正しい人」とは、律法に書かれている掟を、一言一句守ることが出来る人のことでした。そして彼らは、自分たちがその律法に忠実な「正しい人」であると考えて、その自分たちの「正しさ」が損なわれないように、汚れた人々との交わりを絶ち、遠く離れた場所にから彼らを断罪しようとしたのです。
 それに対して主イエスは自らを「医者」であると表現しました。医者や看護師といった医療関係者の方々は、自らも感染のリスクを負いながら、患者の治療にあたります。それと同じように、自らも相手と同じ病や痛みを負うリスクを負って一歩に近付かなければ、その人との愛の関係を築くことは出来ません。神は全知全能なのだから、何も神の御子がわざわざ人となって地上に来なくても、ただ天から奇跡を行って人の罪を癒せばいいではないか。こんな言葉を聞くことがあります。しかし神の御子が、その自らの栄光を捨てて、人となってこの汚れきった私たちの世界に来てくださった、しかもその世の人々からも罪人と蔑まれている者たちと一緒に食事をして下さり、そして最期にはその罪人の汚れをすべてご自分の身に負ってくださった、そこにこそ私たち人間に対する、神の深い愛と憐みの心が示されているのです。
 
Ⅳ:憐れみについて学ぶ場所
 主イエスはファリサイ派の人々に向けて、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。』」と言われました。この言葉は、ファリサイ派の人々だけでなく、私たちも耳を傾けるべき大切な言葉です。では一体私たちはどこに行けば、「憐れみ・愛」について学ぶことが出来るのでしょうか。それは十字架の完全な愛をもって私たちを愛して下さった、主イエスの許に行くことによってです。そしてその主イエスに罪許された者の共同体において、同じ罪人である兄弟姉妹に一歩近付いくことによって、愛とは何かについて学ぶことが出来るのです。
 私たちには誰かの病を癒したり、悪霊を追い出す力はないかも知れません。しかし今日の箇所でイエスが示された「憐みの業」はそうではありません。世の人が罪人、汚れた者として近付こうとしない人々に一歩近づいて、愛の交わりを持つこと、それはキリストの憐れみによって召し出された、私たちだからこそ出来る事なのです。主イエスと出会った喜びにあふれて、その主イエスとの食事の席へ、自分と同じ罪人を一人でも多く招くこと、それこそが私たちが示す愛の行為なのです。

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