2023年03月26日 朝の礼拝「モーセの帰還」

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2023年03月26日 朝の礼拝「モーセの帰還」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
出エジプト記 4章18節~31節

聖句のアイコン聖書の言葉

4:18 モーセがしゅうとのエトロのもとに帰って、「エジプトにいる親族のもとへ帰らせてください。まだ元気でいるかどうか見届けたいのです」と言うと、エトロは言った。「無事で行きなさい。」
4:19 主はミディアンでモーセに言われた。「さあ、エジプトに帰るがよい、あなたの命をねらっていた者は皆、死んでしまった。」
4:20 モーセは、妻子をろばに乗せ、手には神の杖を携えて、エジプトの国を指して帰って行った。
4:21 主はモーセに言われた。「エジプトに帰ったら、わたしがあなたの手に授けたすべての奇跡を、心してファラオの前で行うがよい。しかし、わたしが彼の心をかたくなにするので、王は民を去らせないであろう。
4:22 あなたはファラオに言うがよい。主はこう言われた。『イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。
4:23 わたしの子を去らせてわたしに仕えさせよと命じたのに、お前はそれを断った。それゆえ、わたしはお前の子、お前の長子を殺すであろう』と。」
4:24 途中、ある所に泊まったとき、主はモーセと出会い、彼を殺そうとされた。
4:25 ツィポラは、とっさに石刀を手にして息子の包皮を切り取り、それをモーセの両足に付け、「わたしにとって、あなたは血の花婿です」と叫んだので、
4:26 主は彼を放された。彼女は、そのとき、割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。
4:27 主はアロンに向かって、「さあ、荒れ野へ行って、モーセに会いなさい」と命じられたので、彼は出かけて行き、神の山でモーセと会い、口づけした。
4:28 モーセは自分を遣わされた主の言葉と、命じられたしるしをすべてアロンに告げた。
4:29 モーセはアロンを伴って出かけ、イスラエルの人々の長老を全員集めた。
4:30 アロンは主がモーセに語られた言葉をことごとく語り、民の面前でしるしを行ったので、
4:31 民は信じた。また、主が親しくイスラエルの人々を顧み、彼らの苦しみを御覧になったということを聞き、ひれ伏して礼拝した。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
出エジプト記 4章18節~31節

原稿のアイコンメッセージ

 神様からイスラエルの民をエジプトから救い出すための指導者として選ばれたモーセは、しかし様々な理由を挙げて、何とかその神様の命令を拒もうとします。そのモーセの煮え切らない態度についに怒りを現わされた神様でしたが、しかしなおモーセの兄アロンを共に遣わすことを約束されました。
 神様はここまで、モーセが吐く様々な弱音に根気よく耳を傾けられて、彼の心配を取り除き、また叱咤して、自分の働きへと召し出されたのです。こうして、ようやくモーセは重い腰を上げてエジプトへ戻ることを決意しました。そこで家族の元へ戻ると早速、義理の父エトロに「エジプトにいる親族のもとへ帰らせてください」と申し出ます。エトロは「無事で行きなさい」と快くモーセを送り出しました。
 そして旅立つモーセに、神様は「エジプトに帰ったら、わたしがあなたの手に授けたすべての奇跡を、心してファラオの前で行うがよい」と命じられました。ここで神様が言われる奇跡とは、4章前半でモーセに与えられた三つのしるしのことです。ところがその、ファラオの前でしるしを行うようにという命令に続けて、神様はモーセに「しかし、わたしが彼の心をかたくなにするので、王は民を去らせないであろう。」と告げています。神様は、モーセにしるしをファラオの前ですべて行うようにと命じる一方で、私が彼の心をかたくなにするので王は人々をエジプトから去らせないだろう、と言われています。これは、私たちが理解に苦しむことです。

 一体このような不可解なことを行われる神様の御心はどこにあるのでしょうか。神様はその理由について、先の7章3節以下で、神がファラオの心を頑なにされた目的は、彼らエジプト人が主なる真の神を知るようになるためであると語られています。そして「神がファラオの心を頑なにされた」ということは、イスラエルの人々を苦しめているファラオもまた、神の御支配の外にいるのではないということでもあります。そして今度は10章1節以下でもう一つの理由が説明されています。ここでは、神がどのようにイスラエルの民をエジプトから救い出したのかを、イスラエルの民とその子孫が知るために神がファラオを頑なにされたと述べられています。

神がファラオの心を頑なにされたのは、エジプトの人々が真の主なる神を知るようになるためであると共に、彼らだけでなくイスラエルの人々も自分たちを救い出された真の神を知ることが出来るためでありました。ですから、イスラエルの人々を苦しめているエジプト人とそのファラオが真の神のしるしを見て心を変えれば、それでイスラエルの救いの出来事が完成するのではないという事です。苦しめる側のエジプト人たちだけでなく、救い出される側のイスラエル人もまた神の御業によって変えられることが必要なのです。

 続けて22節以下で、神様は続けてモーセに、神の長子であるイスラエルを去らせないファラオに対して、それ故神がファラオの長子を殺すことを告げるように命じられます。この後の12章でその神の言葉通りに、ファラオの長子から、奴隷、家畜の長子に至るまで、正にエジプト中の長子がすべて死んでしまうことになります。そしてその時神は、その災いによってイスラエルの初子が討たれることがないように、小羊を殺してその血を家の戸口に塗っておくように命じられました。その小羊の血が目印となって、イスラエルの家の長子は一人も死ぬことはありませんでした。これが「過越」と言われる出来事です。その過越の日の、小羊の犠牲の血によってイスラエルの長子たちの命が救われたという出来事において、今日のこの神様の約束が実現したのです。

 ところがここでまた私たちの頭をおおいに悩ませるような不可解な出来事が記されています。
24節には唐突に「途中、ある所に泊まったとき、主はモーセと出会い、彼を殺そうとされた。」という一文が記されています。神様が召し出してファラオの元へ遣わそうとされたモーセを、今度は殺そうとしたというこの出来事は、私たちが理解に苦しむ箇所です。
 ただここで息子の包皮を切り取ったというツィポラの行為は、イスラエルの「割礼」という儀式を表わしているということはわかります。割礼は、神様がアブラハムと契約を結ばれて以来、その神の民のしるしとして命じられた宗教儀式です。しかしモーセは、自分の息子にはこの割礼の儀式を施していなかったのです。ですから、この時神様は、神の民のしるしとして命じておられた割礼の儀式を自分の息子に施さなかったモーセに対して怒りを燃やされて、命を奪おうとされたと想像する事が出来るのではないかと思います。それはつまり、先のところで、エジプトのファラオに対して「神の長子であるイスラエルを解放しないエジプト人の長子の命を奪う」と言われた神の言葉が、ここでそのままモーセ自身にも迫ってきたということです。

 神様の、ご自分に逆らう者に対する裁きの宣告は、決してエジプト人だけに向けられていたのではありません。神の民イスラエルの人々もまた、神に逆らえば同じ神の裁きに立たされることになるのです。いやむしろ、神の民として他の国民よりも多くの憐みと祝福を与えられている彼らは、その恵みに応答する責任が求められていたのです。それは民の指導者として選ばれたモーセであっても例外ではありませんでした。しかしこの時、ツィポラが咄嗟に息子に割礼を施して、その血をモーセの体に付けることによって、神の怒りからモーセを守ったのです。血はすなわち割礼が施されたことを示す目に見える証拠です。それは小羊の血によって神の災いを免れた過越の出来事にも繋がっています。つまりモーセもまた、小羊の血による過越がなければ神の裁きによって滅ぼされてしまう罪人であったということです。私たちが何か大きな問題にぶつかる時にまずしなければならない事は、私たち自身が神の御言葉の前に立って、自分が神の憐れみによらなければ救われることのない罪人であるということを率直に見つめることです。そして神によって私たち自身が変えられるという事が、周囲や環境を変えるよりも先に私たちがしなければならないことです。

 旧約の主エジプトにおいて流された過越の小羊の血は、新約聖書においては、主イエス・キリストが十字架で流された神の子の血として表されました。神の御子である、すなわち神の長子であえるイエス・キリストが、私たちの罪の許しの過越の小羊となって、十字架でご自分の命をお与え下さったのです。その十字架の血をしるしとしてつけられている者、すなわち主イエスを罪人の救い主として信じる者を、神は「わたしの子、わたしの長子」と呼んで下さるのです。
そして真の神の長子である主イエスによって、滅びるべき罪人であった私たちが神の子と呼ばれる者とされているように、今度はその神の子どもである私たちを通して、主イエスの救いの恵みが証しされて、さらに多くの人々が神の子とされていくのです。その神様の恵みのみ業のために用いられるために、私たちはイエス・キリストの血の過越よって、神の子とされているのです。

 私たち愚かな罪人を「わたしの子」と呼んでくださる愛の神に生かされて、この神の御言葉の前にたえず悔い改めて、新しい者へと変えられていくこと、そこにこそ、信仰者となった私たちの第二の人生の確かな出発点があるのです。

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