私たちがこれまで経験してきた悲しみには、後になって振りかえってみて「必要な経験だった」と振りかえることが出来るものもあるかも知れません。しかし、私たちの人生には、いくら時間が過ぎても「良い経験だった」と振り返ることが出来ない、本当に耐えがたい悲しみがあるのではないでしょうか。
そういう辛い現実を生きている私たちにとって、今日の主イエスの言葉は、自らの状況と何とかけ離れていることでしょうか。確かに悲しみを経験することの逆説的な意味を見つめるということも、時には慰めになるかも知れません。けれども、そういう心の持ちようによって、悲しみを「良い経験であった」と受けとめることが出来る事柄には、やはり限界があります。何より今現実に、耐えがたい大きな悲しみに直面している人にとっては、そんな説明はまったく力を持たないのではないかと思うのです。
そして、ここで主イエスが語り掛けておられる群衆たちもまた、正にそのような現実の病や災い、貧しさという悲しみの中を生きている人たちでした。そして主イエスもまた、そのような目の前にある人間の現実の悲しみを問題にしているのです。ですから主イエスが語る「悲しむ人々の幸い」とは、単にあなたの心の持ちよう、考え方を変えて、悲しみをプラスにしなさいという「プラス思考」を教えているのではないでしょう。
この「悲しむ」という言葉は、何かが降りかかってきたために、悲しみや憤りの感情が爆発するような、そういう激しい感情の動きを表わしています。悲しみの感情を包み隠さずに、表に出して表している人に向けて語られている言葉です。涙を流すのか、声にならない叫びをあげるのか、あるいは神に向かって憤りを露わにするのか、とにかく心の悲しみを爆発させて、激しく神に訴える人を、主イエスはここで「幸いな人」と呼ぶのです。
人はあまりに耐えがたい悲しみに出会った時に、かえって涙が流れない、嘆きの言葉が出て来ないということがあります。それは決してその人の悲しみが小さいからでも、心が強いからでもありません。むしろその悲しみが余りにも大きすぎるために心が凍り付いてしまうので、涙や悲しみの感情が表には出てこないのです。その時に誰かが「あなたは今悲しいのだから、我慢しないで悲しめばいい」と言ってくれるとしたら、その言葉は悲しみを抱えている人々にとって慰めに満ちた言葉になるのではないでしょうか。
私たちは悲しみの中にある時に、自分の力でその悲しみを耐え忍んだり、やせ我慢をして笑って見せなくても良いのです。私たちには、主イエスにあって悲しむ自由があります。主イエスはこの山上の説教を語り始めるにあたって、あなたが悲しみを覚える時に、その悲しみの感情を抑えて、沈黙してはならないと教え、「あなたのその悲しみを外に出して、神の前に大いに訴えなさい」と言われるのです。
一方で聖書は様々な箇所で私たちに「喜びなさい」とも教えています。しかし聖書が言う「喜びなさい」という命令は、どんな大きな悲しみがあったとしてもその悲しみを表に出さず、いつも喜んでいなさいということではありません。聖書がいう喜びとは、私たちの悲しみの暗闇の中に、外から差し込んでくる一筋の光です。そしてそれが、続けて主イエスが語られた「その人たちは慰められる」という言葉です。この「慰められる」という言葉は「パラカレオ―」というギリシャ語です。「パラ」は「傍ら」「側」という意味の言葉です。そして「カレオー」は「呼ぶ」「声を掛ける」という言葉です。
つまり、悲しむ人の傍らに立って声を掛けるということが「慰める」という事です。私たちは、大きな悲しみの中にいる人を前にした時に、その人に掛けるべき言葉を持ちません。ましてや悲しみの中にいる人に向かって「あなたは幸いである」と言うことなど誰にも出来るはずがありません。しかし実はそれは、「悲しむ人々は幸いである」という言葉自体が問題なのではありません。問題は、その言葉を誰が口にするのかということです。悲しむ人に本当の慰めを与えて、また本当の幸いを与えることが出来る者だけが、この言葉を口にする資格があるのです。そして主イエスこそが、その本当の慰めと幸いを悲しむ人に与えることが出来る真の救い主であるのです。
聖書は、この主イエス・キリストの地上の生涯について次のように述べています。
【キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。】
このキリストこそこの地上の生涯において、多くの耐えがたい悲しみを生きてこられた御方です。神に向かって「激しい叫び声をあげ、涙を流しながら」生き、死んでいった御方です。そしてその叫びと涙をもって「祈りと願いを捧げた」のです。悲しみの中で父なる神に向かって激しく泣き叫び、流した主イエスの涙は、それは「祈り」であったと書かれています。そうであれば、この主にあっては、私たちが悲しみの中で流す涙もまた、神に祈りとして聞かれるのです。
そして、神がキリストの流された涙と叫びの祈りを聞き入れられたように、その主イエスにあって流す私たちの涙の祈りも必ず、この父なる神に聞き届けられて、慰めを与えられるのです。その「慰め」とは、悲しみの原因が解消され、取り除かれるということとは違います。それは、この十字架の御苦しみを耐え忍ばれたお方が、決して私の悲しみと涙を決して軽んじられず、また蔑まれないということ、そしていつも私の傍らに立って共におられるということです。その主にあって私たちは、この世の悲しみの現実の中で、なおその悲しみを担い続けることが出来るようになるのです。それが聖書言う慰めです。
私たちの人生には、きっとこれからも様々な悲しみが襲ってくるでしょう。時には、もう立ち上がれないと絶望するような耐えがたい悲しみに出会うこともあるかもしれません。その時私たちは我慢せずに、主イエスにあって悲しめば良いのです。その涙は、決して虚しい嘆きでは終わりません。十字架を前にして涙と悲しみの祈りを祈られた主イエスは、私たちの涙の祈りを必ず聞き届けてくださいます。そして私たちの傍らに立って、「悲しむ人よ、あなたは幸いだ。あなたは慰めを受けるのだ」と声をかけてくださいます。この主イエスの慰めを通して、私たちは悲しみの中で絶望し、倒れ伏してしまうのではなく、もう一度立ち上がって、新しい一歩を踏み出す力を与えられるのです。
そして十字架の苦しみの先に、あの復活の喜びが起こったように、私たちが主にあって悲しむ時、その先に「主にあって喜びなさい」という、もう一つの聖書の御言葉が実現する道が開かれているのです。