2023年04月16日 朝の礼拝「柔和な人の幸い 」

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2023年04月16日 朝の礼拝「柔和な人の幸い 」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 5章1節~12節

聖句のアイコン聖書の言葉

5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
5:5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 5章1節~12節

原稿のアイコンメッセージ

 ここまで私たちは、山上の説教の冒頭の「幸いの教え」について一つ一つの言葉に留まりながら聞いています。今日の「柔和な人々は幸いである」という言葉は、他の幸いの教えとは異なって、私たちが違和感なく受け入れることが出来る「幸いの定義」なのではないかと思います。私たちは普通、「荒々しい人」「粗暴な人」「怒りっぽい人」に近づきたいと思いません。反対に「柔和な人」「穏やかで優しい人」の周りには、自然と人が集まってきます。ですから「柔和な人は幸いである」と言われれば、素直に受け取る事が出来るのではないでしょうか。
しかしこの柔和と言うギリシャ語は、旧約聖書の「貧しい」という意味の言葉の訳語として用いられることがあります。たとえば詩編37編11節「貧しい人は地を継ぎ、豊かな平和に自らをゆだねるであろう。」で「貧しい」と訳されているヘブライ語は、ギリシャ語訳旧約聖書では「柔和」という言葉で翻訳されています。
 では詩編37編で「貧しい人」と言われている人はどのような人のことなのでしょうか。1節には「悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな」とあります。この詩編の作者は、この世の中で悪を行うことによって栄えている者に対して、妬みを起こしたり苛立ったりして心を悩せてはならないと教えています。そして9節で「悪事を謀る者は断たれ、主に望みをおく人は、地を継ぐ。」と語っています。ですから「主に信頼し、主に望みを置いて委ねる人」の言い換えとして、「貧しい人」という言葉が使われているのです。悪を行うことで栄えている者を見て、その人を妬んだり、反対に自分の貧しさや不幸を嘆いたりするのではなく、そういう逆境を耐え忍んで神に信頼し、神の御業が現れるのを待ち望む者こそが、この詩編が歌う「貧しい人」の姿です。すなわち、自分の権力や力をもって物事を解決しようとしない人、自分の力で、力ずくで生きようとせずに「主を待ち望む者」が、ここで言う「貧しい人」のことです。
 
 私たちの人生は複雑です。この世の中も決して善意や良心だけが満ち溢れているのではありません。この世の中には現実に、数多くの悪や不正が現実に行われていて、それで私腹を肥やしている人、名声を得ている人がいます。そういう生き馬の目を抜くような世の中を生きていくには、柔和なだけでは損をするばかりです。時に力を用いざるを得ない逆境に私たちは出会う事があるのです。しかしそういう局面においてなお怒りや苛立ちに身を任せるのではなく、沈黙して主に向かい、主を待ち続けて主に望みを置いて生きること。それが聖書が語る柔和さです。
 この「柔和」という言葉は、新約聖書の中でこの箇所を入れて4回しか使われていません。その内の3回までがこのマタイ福音書で用いられています。二度目に登場するのは、11章29節です。28節から30節まで。「28:疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29:わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30:わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」ここで主イエスは御自分について「私は柔和で謙遜な者である」と語っておられます。苛立ちや怒りに囚われてそれを人にぶつけたり、あるいはご自分の力に任せて事をなさらない、ということであります。この柔和で謙遜な主イエスの生き方から、私たちは疲れを癒されて、真の安らぎを得ることが出来る生き方を学ぶことが出来ます。
 そして21章5節にも「柔和」という言葉が出てきます。ここにもまた、柔和さ(優しさ)をもって人々を治める王の姿が描かれています。その柔和な王である主イエス・キリストと共に軛を負い、この主イエスの柔和で謙遜な姿に学び、そしてその主イエスと共に生きる者は、苛立ちや怒りに囚われて、それらに身を委ねるのではなく、自分の正義や力によって事を成そうとするのでもなく、ただ静かに沈黙して、主にのみ望みを置いて、その主の救いと恵みを待ち望む「柔和な者」へと変えられていくのです。その柔和さ、優しさは、私たちの生来の性格や、心の広さから生まれてくる「優しさ」とは違います。私たちキリスト者が持つ「優しさ」は、「神に対する信頼から生まれてくる優しさ」です。神にすべてを委ねることが出来る信仰と平安から生まれてくる優しさこそが、私たちキリスト者の持つ優しさなのです。

 私たちの世界は、強い者が力をふるって自分の意見や正義を押し通していく世界です。そしてそのためには相手の意見や人格を否定してねじ伏せることも厭わないという、力の論理がまかり通っている世界です。その世の中を、力によらずに柔和さで、優しさを示して生きていくということは、ある意味では損な生き方に映るかもしれません。悔しい思いをしなければならないことがあるでしょう。「正直者が馬鹿を見る」という現実に立たされることが起こるかも知れません。しかし、そのような一見愚かな、損な生き方をしているように見える「柔和な者」「優しさを示して生きる者」に対して、主イエスはあなたがたこそが真の幸いな者なのだと語られるのです。なぜなら、そのように「柔和さ」「優しさ」に生きる者こそが、やがて地を受け継ぐことになるからです。「地を受け継ぐ」ことは、旧約においては神の祝福のしるしであると考えられていました。

 そして新約聖書の時代において、私たち神の民が受け継ぐべき「地」とは神の国の事です。それは死後に行く来世のことではなく、主イエス・キリストによって、天だけでなくこの地上において実現する神のご支配のことです。そしてそれは、私たち信仰者がこの力が支配する世界を、主イエスにある優しさによって生きていく時に、その私たちを通して実現する神の支配です。私たちを通してこの神なき世界に、柔和な王である主イエスの愛の御支配が実現する事が「神の国が、この地上において実現する」ということです。神の支配(神の国)は、決してこの教会の中だけに実現するのではありません。この地上の世界において、神の御支配が及ばない所はありません。この世界が私たち人間の目には、どんなに神無き世界に映るとしても、神は確かにこの世界を支配しておられるのです。私たちはその神の御支配(神の国)の最前線に立っているのです。
 そして、やがて主イエスがこの世を支配するために再び来られる時には、この世界全体を力ではなくて、柔和さ、謙遜さ、優しさによって支配する、「真の神の支配」がこの世界を覆う日が来るのです。そしてその希望を抱いて主を待ち望む事が出来る私たちこそ、柔和な者の幸いを生きている者なのです。

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