人が初めて教会に足を運ぶ切欠は人それぞれです。仕事や人間関係などで何かしらの問題や悩みを抱えていて、その問題の解決を求めて教会に足を踏み入れたという人も少なくありません。しかしクリスチャンになったからと言って、その問題が解決するとは限りません。「信仰があっても問題が少しも解決しないのであれば、その信仰には一体どういう意味があるのか。」 聖書に登場する多くの信仰者たちもまた「信仰の苦しみ」にぶつかり葛藤しています。今日の箇所でモーセも「なぜ神は私たちの苦しみや悩みを解決してくださらないのか」という問題に悩み苦しむことになります。
モーセと兄アロンは、今日の箇所でエジプトのファラオと直接対決することになります。ここでモーセがファラオに語っている言葉、特に3節の前半部分は、3章18節で神がモーセに対してファラオに告げるようにと命じた言葉を、そのまま忠実にファラオに述べています。初めから神御自身は、イスラエルの民を導き出す目的を「御自分に犠牲を捧げさせるため(神を礼拝させるため)」と説明しておられます。そもそも神が、イスラエルの人々をエジプトからカナンの地へ導こうとされたのは、神を礼拝する者、神に仕える者とするためです。
苦しみから逃れる、解決を与えられるという事が私たちの信仰の目的、ゴールなのではなく、私たちが神との正しい関係を取り戻して、真の神を礼拝し、真の神に仕える者になるということが、神が与える真の自由と解放です。そのことを、私たちはまずここで心に留めておく必要があります。
そこで、そのモーセの言葉に対するファラオの答えは、断固とした拒否の姿勢でした。この時のファラオが言い放った「わたしは主など知らない」というこの答えは、「私は決して主を知ろうとはしない」という、主なる神に対する拒絶を表す言葉です。エジプトにおいてファラオという存在は、単なる王ではなく「現人神」です。ファラオは自らをエジプトの神として、イスラエルの神との対決の姿勢を示しているのです。
こうしてモーセの要求を退けたファラオはすぐ様、「民を追い使う者(エジプト人の監督)」と「下役の者(同胞を監督するイスラエル人)」を集めて、これまでエジプト側が用意して支給していた煉瓦に混ぜる藁を、今後はイスラエル人に自分で集めさせるようにという命令を下したのです。しかも以前と全く同じ数量の煉瓦を、同じペースで作らなければならないと命じました。当然、イスラエルの人々はノルマ通りにレンガを仕上げることが出来なくなり、その責任を問われた下役の者たちは、ファラオの元に行って窮状を訴えます。しかしファラオは、この訴えも退けました。
この15節から16節にかけて、イスラエルの下役たちはファラオに対して自らを三度「僕」と呼んでいます。この「言葉は、「仕える者」という意味の言葉です。さらに「訴えた」と訳されている言葉は、直訳すれば「叫んだ」という言葉です。他の箇所では、神に対して自らの苦しみや嘆きを訴える際に、この「叫んだ」という言葉が使われていますが、ここではファラオに対して人々が叫びを上げたことが記されています。ですから、このモーセとファラオの対決、ファラオとイスラエルの下役たちの対面において本質的に問われていることは、あなたがたは誰に仕え、誰を礼拝するのか、という事です。そのことを私たちもまた、信仰生活において絶えず問われることになるのです。
こうしてモーセとファラオの最初の対決は、散々たる結果に終わります。彼らは、神の命令に従い、神が命じられた言葉を語りました。しかしその事によって、事態はより一層悪い方向へと進んでしまった訳です。そこで今度はモーセ自身が神に対して訴えます(22-23節)。このモーセの訴えこそ、多くの信仰者が苦しんできた「信仰の苦しみ」「信仰者の苦しみ」です。預言者エレミヤは、この信仰の苦しみを前にして「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。」と言って、自らの命を取り去るように神に願いました。それほど、この苦しみは、信仰者にとって辛く耐えがたいものであります。しかしその苦しみは、彼らが真剣に神を信じて、神の言葉に従おうとしていたからこその苦しみでした。神に少ししか期待せず、僅かな犠牲しか払っていないのであれば、こんな風に苦しむことも失望することもありません。本当にこの神の言葉に期待をかけて、自らの犠牲を厭わずに仕えようとしていたなら、そこで私たちは深く悩み、失望するのではないでしょうか。そして、その信仰の苦しみの中でしか見ることの出来ない、神の御業があるのではないでしょうか。
この時、モーセの叫びに対して神は「 今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう」と言われるのです。そして実際に彼らはこの後、この神の言葉が実現するのを目撃することになるのです。私たちはこの地上においては必ず信仰の苦しみ、信仰ゆえの戦いを経験しなければなりません。「日曜日に教会に行って、神を礼拝することなど時間の無駄ではないか。しょせん信仰とは弱い者、自分で努力しようとしない怠け者がすがろうとする偽りの言葉ではないか」というこの世の様々なファラオの声が聞こえてきます。ですから、いっそ、信仰などない方がそういうことに悩まずに、ずっと楽に生きていくことが出来るかもしれません。しかし、その信仰の苦しみの中でしか見ることが出来ない、体験することが出来ない、神の救いの御業があるのです。
苦しみから逃れるという事が私たちの信仰の目的、ゴールなのではなくて、その苦しみの先にあるもの、神との正しい関係を取り戻して、神に仕える者になるということが、私たちに与えられる真の自由と解放であります。そしてそれは主イエス・キリストの十字架と復活によって、すでに成し遂げられたのです。私たちは信仰の苦しみの中で、私たちの主であるイエス・キリストを見つめて、このお方の父なる神が、その強い御手をもって必ず私たちの救いを実現して下さるということを信じて、忍耐強く信仰に留まり続ける者でありたいと願うのです。