山上の説教の幸いの教えの四つ目は、「義に飢えた人々の幸い」についてです。今日の言葉は、ルカ福音書の平地の説教では「今飢えている人々は、幸いである」となっていて、正に肉体的な飢え乾きに苦しんでいる人々に対して語りかけていますが、それに対して、今日の山上の説教ではより精神的な面に焦点が合わせられています。
ルカ福音書で述べられている現実の飢え乾きの持つ切実さ、悲惨さと比べますと、この「義への飢え乾き」は、どこか抽象的な印象を与えます。しかしよくよく考えてみれば、私たちの世界を覆っている貧困の原因は、決して単なる物質的な問題だけに留まるのではありません。貧困や飢餓の問題は、決して単なる食糧問題や経済の問題ではなく、本質的には社会における不正義の問題であります。ですからルカ福音書の「飢え渇き」と、マタイ福音書の「義に対する飢え乾き」は、本質的な意味では違いはありません。
この聖書の時代と比べて、今の私たちの社会は物質的には大変恵まれた豊かで、便利な社会であります。しかし神の正義はどこにいってしまったのかと問わずにおれない「義に対する飢え乾き」を、現代人の多くもまた抱えているのではないでしょうか。一年以上に渡って続いているロシアとウクライナの戦争、先月にスーダンで起こった内戦・・・。もし神が本当にいるのなら、なぜこのような不正義がまかり通るのでしょうか。神の正義はどこにいってしまったのでしょうか。
そのような、この世界の理不尽さ、不公正さに憤りを感じて神に抗議した人物が、今朝の旧約朗読で読みましたヨブ記に登場するヨブという人物です。24章1節でヨブは、悪を行う者が貧しい人を搾取して、そのことによって栄えているという世の現実の不条理さについて語ります。そして「神が貧しい者たち、虐げられている者たちを一向に顧みられない、救いだそうとされないことに不満を漏らします。ヨブは、悪人が栄えて貧しい者が虐げられているという現実の中に、神の不在、怠慢を見ているのです。
ところが、このヨブとは異なる見方を示したのが、主イエスの弟子であった使徒ペトロでした。ペトロは、ペトロの手紙二3章9節で、ヨブが神の不在と怠慢を見出だしていた世の不条理の中に、むしろ神の人間に対する憐みと忍耐を見出だしています。そしてこの不公正で不条理な世界が今も保たれているのは、一人でも多くの人が悔い改めるようにと神が忍耐しておられるからだと述べています。
ヨブは自らを正しい人間、救われるべき人間の側に置いていま、罪人がのさばっている世の不条理を嘆いています。それに対してペトロは、自分がいざとなれば愛する先生をも裏切って見捨てることが出来るような、弱い罪深い人間であるということ、そしてその自らの罪を許すために十字架の上で血潮を流してくださった主イエスの十字架の愛と憐みを知っています。自分の罪深さを知り、その罪を代わりに背負ってくださった主イエスの十字架を知っていたことが、ヨブとペトロの世界に対する見方を分けているのです。
この世界に神が正義を貫かれるという事は、正しく生きている者はその報いを受けて、悪を行っている者は裁きを受けるという事です。もしそのような神の正義がこの地上において実現したら、その時に真っ先に裁かれ、滅ぼされなければならない罪人は私たちではないでしょうか。しかし神は、そのような罪人に対する正義の裁きという形で「神の義」を現されませんでした。
この後の10節で主イエスは、もう一度「義」という言葉を用いて「義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」と述べておられます。更に11節では「義のために迫害される人々」という言葉を「わたしのためにののしられ、迫害され・・・るとき」と言い換えています。ここで主イエスは、この私を通して神の正義がこの世界に実現するのだと述べておられるのです。そしてその主イエスによってあらわされた神の義は、正しい者は救われて、悪人はその罪によって裁かれるという鯖義による義ではなく、神の独り子であるお方が、私たちに変わってその罪の罰を十字架によって引き受けてくださったという、神の愛と赦しの義として私たちに表されたのです。
しかしそれは、この世界に完全な正義が表されて、私たちの義への飢え渇きがもう満たされてなくなってしまった、ということではありません。主イエスの十字架が実現した後も、世界から戦争や貧困がなくなった訳ではありません。主イエスの十字架の死において神の義、正しさが貫かれてもなお、私たちは今も現実の中で苦しみの中で義に飢え渇いています。
しかし私たちは、主イエス・キリストが確かに十字架の死と復活において、真の神の義(神の救い)をすでに実現してくださったということを知っています。そしてこの御方を通して、神の支配(神の国)がこの地上においてすでに始まっていることを知っています。そこに希望を持っているからこそ、私たちはこの不公正で不条理な世界の中で、やがて神のその正義が完全に表され、義に対する飢え乾きが満ち足りる日が来ることを信じて祈り働くことができるのです。
主イエス・キリストという存在がなければ、私たちのこの世界は、確かにヨブが嘆いたように、不条理で不公平な歪な世界でしかありません。しかし神の愛、神の救いそのものである、主イエス・キリストというお方を通して世界を見つめる時に、神がこの世界とそこに生きている一人ひとりを心から愛し、憐れんでおられるという、もう一つの世界の見方を見出すことが出来るのです。