2023年05月14日 朝の礼拝「天の国の幸い」

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2023年05月14日 朝の礼拝「天の国の幸い」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 5章7節~12節

聖句のアイコン聖書の言葉

5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 5章7節~12節

原稿のアイコンメッセージ

 幸いの教えの後半は、7節「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」という言葉で始まります。四つの福音書の中でも、マタイ福音書は特に「憐れみ」の重要性について強調しています。例えば23章23節で主イエスは「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。・・・律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。」と述べて、旧約聖書の律法の中心的な要素として「慈悲(憐れみ)」を挙げておられます。
 それではその「憐れみ深い人」とは一体どのような人のことであるのか、そのことを主イエスが具体的に教えられた箇所として、同じマタイ25章31節以下を挙げることが出来ます。ここで主イエスが示される憐れみ深さは、決して単に心の中で同情するだけでなく、必ず何らかの具体的な行動を伴うものであるという事が示されています。そしてそのような憐れみの行為を、何か見返りを求めることが出来ないような最も小さな者に対して行うことが、主イエスが語られる「憐れみ深い生き方」です。

 そしてもう一つ、主イエスは、「仲間を許さない家来のたとえ話(マタイによる福音書18章21節以下)」で、天の国の民の憐みのもう一つの側面を語っておられます。このたとえ話は、弟子のペトロが「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか」と尋ねたことに対して、主イエスがお語りになられたたとえ話です。ここで語られている天の国の民の持つ「憐れみ」とは、自分に対して借金を負っている者、すなわち個人的な罪を犯した相手を赦すことです。そうであれば、先の25章で主イエスが語られた「最も小さい者」もまた、貧しい人や困っている人だけではなくて、私に対して罪を犯し、敵対している者が私にとっての「最も小さい者」となるのです。そしてそういう最も小さい者の罪を赦して、その自らの敵を愛すること、それが天の国の民の持つ憐れみなのです。そういう憐れみ深さを生きた者は、天の国において祝福を受けることが出来る幸いな人々であると主イエスは語られているのです。

 さて、続く8節には「心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。」とあります。私たちは普通、道徳的に、あるいは倫理的に優れた清廉潔白な人のことを「清い人」と呼ぶのではないでしょうか。しかし使徒パウロが書いた手紙の中で「義人はいない、正しい人は一人もいない」と述べていますように、この時に主イエスの言葉を聞いていた弟子たちや群衆の中には、そういう正しい人は一人もいなかったと言わなければなりません。ここで言われている「清い」という言葉には、「綺麗な」という意味の他に、「純粋で混じりけのない」という意味があります。神と富に仕えようとする二心のない人、純粋で一途に神を慕い求める人のことです。
 旧約聖書の律法では、特にこの「神の前に清くある」という事が厳しく求められました。例えば、重い皮膚病にかかっている人や、生理中の女性は汚れているとされて、そういう人に触れた者も汚れた者となるとされました。そしてもし、彼らに触れて穢れを負ってしまった場合は、水で手や体を洗ってその穢れを落とさなければなりませんでした。けれども、水によって洗い落とすことができるのは所詮、体の表面の汚れだけです。神が本来求めておられるのは、私たちの心(思いと言葉と行いの全体)が神の前に清くあるということです。手や体を洗うという行為はあくまでそれらを象徴的に表す行為に過ぎません。ところが、そのような穢れを避けようとする律法の規定が習慣化していく中で、むしろ手を洗うというその行為自体に人間を清くする力があり、それらの儀式を忠実に守る事で人間は清い者として神の前に出ることが出来ると考える人々が増えていきました。
 そして、そのような人々に対して、主イエスが語られたのが、ルカによる福音書第18章9節以下に登場する「ファリサイ派と徴税人のたとえ話」です。このたとえ話は、主イエスが求めておられる「心の清さ」がどのようなものであるかを私たちに教えてくれています。すなわち、私たちが善い行いを積んで行って、一生懸命に礼拝をして、献金をしていけば、それよって私たちの心から不純物が取り除かれて、純粋で綺麗な清い心が出来上がるのではないという事を示しています。

 私たちはいくら努力しても、汚れも罪もない、清い純粋な心になって神の前に立つことは到底出来ません。主イエスは、そのように自分自身では決して清くなることの出来ない、そういう罪深い汚れた私たちを、ただ神に委ねて、その神の憐れみを願い求めなさい、と教えておられるのです。しかもその神の憐れみは、単なる抽象的な観念としてではなく、主イエスが十字架で血潮と涙を流されて、その命を捧げてくださったという、具体的な現実の憐れみの行為によって私たちに示されたのです。私たちは、この神の御子である主イエス・キリストを通して、父なる神の大いなる憐れみを頂いて、この主イエス・キリストの愛と赦しの御業の中に生かされて今あるのです。
 そして、そのように主イエスによって憐れまれた私たちが、今度は自らも憐れ深く生きたいと願い、そして具体的な憐みの働きをしようとするのです。それは父なる神が示してくださった憐みの業には比べるべくもない、本当に小さな貧しい憐れみの業でしかないでしょう。しかし私たちは、自らの持つ憐みの貧しさや不十分さを知りつつ、しかしなお主イエスに憐れみを受けた者として憐れみ深く生きるのです。地上の生涯において、この主イエスの憐れみに生かされて、そして自らも人々を憐れむ者とならせていただくことが出来ることは、私たち天の国の民に与えられている、何という大きな幸いでしょうか。

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