9節には、7番目の幸いとして「平和を実現する人々の幸い」が語られています。主イエスが、この言葉を人々に語った時代は、ローマ帝国の巨大な軍事力によって、かつてない平和な世界が実現した時代であり、人々はその繫栄と平和を謳歌していました。そして巨大なローマ帝国を支配するローマ皇帝は、人々から「神の子」と呼ばれてたのです。
しかし、聖書が示す平和とは、何よりも神との霊的な関係における平和を指しています。そして人間が本当に自由と幸福な生を生き、肉体的な健康や物質的な充足や人間関係における調和と喜びに満たされるという事も意味しています。それは神がこの世界を創造された最初の世界の平和です。その世界は私たち人間の背きの罪のために破壊され、この世界は暴力と支配と混乱に満ちたものとなりました。人間は、真の意味で互いを理解し合い、愛し合うという事が出来なくなり、何より神に対して背を向けて敵対するようになりました。
私たちの世界で起こっている戦争や争い、差別や貧困は、一部の政治家や権力者たちが悪いというような簡単な言葉で片づけることは出来ません。それは私たちが罪によって最初に神様が造られた平和と調和を失っているからです。そして、そのような壊れてしまった世界に再び平和と調和をもたらすために神はこの時、ご自分の御子を暴力と混乱に満ちた世界にお遣わしになりました。使徒パウロは、このキリストこそが「二つのものを一つにして、敵意と言う隔ての壁を取り除く私たちの平和」であると述べています。十字架の苦しみと死によって、私たちと神との間の隔ての壁を打ち壊してくださり、真の和解と平和をもたらしてくださった主イエスこそが、神の平和そのものであり、「神の子」と呼ばれるのに相応しい御方であります。そして主イエスは、今度はそのご自分の成し遂げられた平和をこの世界において実現していく働きを、巨大な力を持つローマ帝国やそれを支配する皇帝ではなくて、主イエス・キリストによって神との平和を回復された信仰者と、聖霊によって建てられる教会に託されました。私たちこそが、この世界に「平和を創り出す幸いな人々」であって、この世界において「神の子と呼ばれる」存在なのです。
その私たちは、主イエスが再びこの地上に来られるその日まで、この世界には決して完全な平和は実現しないということを知りつつ、この暴力と敵意によって支配されている世界の中でキリストにある平和の福音を人々に伝え続け、自分を攻撃する者を赦し、敵意を向けてくるものに対してこちらから手を差し伸べて和解を呼び掛け、そしてこの世界の平和のために祈り続けるのです。そのようにして、この世界にキリストの平和の小さな架け橋をかけ続けながら、やがてキリストによって完全な平和と世界の回復がもたらされる日を待ち望むのです。
幸いの教えの終りに主イエスは、「義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」と述べています。主イエスが語られた八つの幸いは、最初の1節にありますように、直接的にはご自分の弟子たちに対して語り掛けておられる言葉です。3節から6節に描かれる「貧しい者」「悲しむ者」「柔和な者」「義に飢え乾く者」の姿は、迫害の中で、貧しさと悲しみを耐え忍び、神の義(救い)が現れることを待ち望んでいる人の姿です。
そして7節から10節では、そのような迫害の中にあってなお、自らを攻撃して虐げる迫害者の罪を赦し、迫害者に対する憎しみに心を委ねずに、迫害者との間に平和を創り出すという神により頼んで積極的に生きる弟子たちの姿があります。この3節から10節で示されているキリストの弟子の生き方は、まさに主イエスがこの地上の生涯において表された生き方、神の子の生き方です。
山上の説教において呼び掛けられた八つの幸いの教えは、この迫害に中で十字架の死という最後を遂げられた主イエスの口から語られた言葉であるからこそ私たちをこの幸いに生かすことが出来る生ける神の言葉としての力を持つのです。そしてこの主イエスの弟子となって、この地上の生涯を主イエスに倣って生きようとする者は、同じように迫害や苦しみを通り抜けなければなりません。少なくとも現代の日本においては、私たちはキリスト者であるという理由で、周囲から迫害を受けるということはないかも知れません。
しかし私たちもまた、この地上の生涯をキリスト者として生きようとする時に、戦わなければならない信仰の戦いがあります。私たちは、主イエスと出会い、この御方を信じて従っていこうとするときに、その自分の罪や弱さと向き合って、それに苦しまなければならなくなるのです。私たちが、そういう自分の罪に対する苦しみや痛みを覚えるということは、確かに私たちが主イエスの弟子とされて、このお方の御跡を歩いているということの証しでもあるのです。私たちが人生の苦しみを生きる中で、自らの罪深さや弱さを知りつつもなおそこで主イエスが語られた幸いを見つめながらその苦しみを耐え忍ぶときに、私たちは一人一人が「小さなキリスト」となって、この世界に遣わされていくのです。そしてその場所で真の神のご支配を実現する「天の国の民」として生きるのです。
主イエスはこの山上の説教の冒頭において、天の国の民に与えられる幸いについてお語りになりました。そして最後に主イエスは、そのようにこの地上において迫害され、罪に苦しむ者に対して「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」とお語りになりました。天における神の報いを信じて喜ぶというのは、すなわち神のご支配、神の国の実現を信じてそれを待ち望むことです。ですからその報いは、最終的には私たちが死んで天の国に行った時に受け取ることになります。しかし私たちは、今すでにこの主イエスに結ばれた者として、地上の生涯においてもう神の御支配を生き始めているのです。そしてこの天の報いを、日々において現実に受け始めているのです。
「天の国の民よ、喜びなさい。大いに喜びなさい。あなたがたは天において大きな報いがある。」
この主イエスの言葉を、私たちは今朝もう一度、この私に語り掛けられている言葉として聞きたいと思います。そして、私たちはすでにこの天の国の幸いに今、生かされてあることを心に刻んで、明日からの一週間の歩みを、喜んでまたそれぞれの場所へ遣わされていきたいと願います