今日の8章は、この手紙全体のクライマックスとも言える箇所です。8章冒頭でパウロは「従って、今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることはありません。』と宣言して、キリストによる罪と死からの解放を語ります。そしてこれがこの手紙の結論です。その結論の直前7章の終わりでパウロは、自らが持っている「罪の性質」について語っています。自分が心では善を行うということを願っていながら、しかし現実には却って自分が憎んでいるはずの悪を行っているということを正直に告白しています。
その自己矛盾、自己分裂の中で苦しんだパウロは、『わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。』と嘆かずにはおられないのです。
このパウロの告白を読む時に、私たちは使徒に対してある種の親近感を覚えるのではないでしょうか。「私は、イエス・キリストを信じてクリスチャンとなりました。でも今も私は、罪や悪からも逃れられません。」私たちはこう言って、最初の救われた喜びや希望から、変わることのできない自分に対する嘆きへと落ち込むことが少なくないのではないでしょうか。
しかし、使徒パウロはの言葉、そのような私たちの心の動きとは正反対です。彼は「私はなんと惨めな人間か」という嘆きから、「今や、キリストにある私たちが罪に定められることはない」という、主イエスによる罪からの解放に目を向けていくのです。彼は自分自身の弱さや罪深い惨めな姿を受け止めながら、しかしその私を救うことがお出来になる御子イエスの十字架と復活に目を向けることによって、真の喜びと希望を与えられているのです。そしてそのような罪からの解放と喜びをもたらしてくれるものとして、8章でパウロが語っているのが「神の霊」(9節では「キリストの霊」)=聖霊についてです。
9節、10節でパウロは、キリストの救いにあずかった信仰者の内に、聖霊が宿って下さり、そしてその聖霊の働きによって肉の支配から解放されるということを語っています。そういう意味では、聖霊は私たちにとって、最も身近にいてくださるお方です。更に11節でパウロは、聖霊はキリストを死者の中から復活させたお方であって、やがて私たちの死ぬべき体を復活させるのも聖霊の働きによるのだと語っています。
そして14節以下でパウロが挙げているのが、罪人を神の子とする働きです。6章では、罪に死んで、神に生きるようになった者たちの事を「奴隷」に例えていますが、ここでは更に踏み込んで、神の霊によってキリストに結ばれた者は、もはや奴隷ではなくて「神の子ども」とされたのだと大胆に述べるのです。
奴隷は、何かミスをすれば、主人から叱責を受け、罰を与えられます。奴隷は主人に対して、いつ捨てられるか分からないという恐れを抱き、主人の機嫌を損ねないように顔色を伺っていなければなりません。
しかしパウロは、私たちに与えられている聖霊は、そのような恐れを抱かせる奴隷の霊ではなく、私たちを神の子とする霊なのだと語るのです。「子とする霊」は、正確には「養子の霊」という言葉です。本来、神の御子と呼べるのは、イエス・キリストただお一人であります。しかし神はキリストを信じる信仰の故に、私たちに聖霊を注いで御子キリストに結び合わせてくださり、その私たちをご自分の養子として迎え入れてくださったのです。そして、神の養子とされた私たちは、聖霊によって天の神を「アッバ、父よ」と呼ぶことが出来るのです。
「アッバ」という言葉は元々は、当時のユダヤ人が日常語として用いていたアラム語で幼い子どもが父親を呼ぶときに用いた幼児言葉であったと言われています。この「アッバ(お父さん)」という親しい言葉で、天の神に祈られたのが、他ならぬ主イエスでありました。そして、神の霊を頂いてこのキリストに結びあわされた私たちも、主イエスが呼び掛けられたのと同じ「アッバ、父よ」という親しい言葉で、この天の神に祈る事が出来るのです。
そしてそれは、私たちに何か神の子として相応しいものがあったからではないのです。むしろ、子どもは子どもなりの弱さや欠点をそれぞれに持っています。しかし親にとっては、たとえそういう弱さや欠けがあったとしても我が子は我が子であって、存在そのものを愛おしく思います。そして、もし子どもが何か過ちを犯した時には、親はその子が正しい道、幸せな道を歩くことが出来るように願って、手を差し伸べようとするのです。子どもは、その親の愛に対する信頼がある時に、安心して外の世界に出掛けて行くことが出来るのです。
罪人である私たちでさえ、親として自分の子どもに対して(不完全ではあっても)ある種の無条件の愛が芽生えてくるのです。ましてや、弱くみじめな罪人である私たちを憐れんで養子として迎え入れてくださった天の父が、何度言っても過ちを繰り返すからという理由で、私たちを再び見捨ててみなし子にされるということがあるでしょうか。
むしろ神は、私たちがもう二度と御自分から離れることがないように、聖霊を私たちの内に宿らせてくださり、その聖霊によって私たちをご自分の御子としっかりと結び合わせてくださったのです。そして、私たちが本当に神の子どもらしく成長することが出来るように、その聖霊によって私たちを教え導き、神の子として相応しく整えてくださるのです。しかも神は、私たちが養子だからと言って、本当の子どもより一段劣る者と見做そうとはせず、本来の神の御子であるキリストの共同相続人としてくださいました。そしてイエスが受けられる栄光を、私たちも受け取ることが出来るようにしてくださったのです。
そのように、罪人であった私たちが、聖霊によって今は神の子どもとされ、キリストの共同相続人とされているということの確かな証拠が、この天の神を「アッバ(お父さん)」と呼んで祈り、礼拝することが出来るということなのです。
私たちは、キリストにあって救われた今もなお、愚かで弱い者であります。この地上の生涯において罪から完全には離れることは出来ません。しかし私たちの内に宿られたのは、いつ神から見捨てられるかと心配しなければならないような奴隷の霊ではなく、私たちを神の子どもしてキリストに約束されているのと同じ栄光を約束してくださる「子とする霊」なのです。ですから私たちも、決して自らの罪に対する嘆きだけでは終わらずに、なおも私たちをご自分の子どもとして迎えてくださる父なる神を見上げて、小さな子どもが親に信頼して手を引かれて喜んで歩いていくように、聖霊によって神の子どもとして導かれていくのです。