2023年06月04日 朝の礼拝「私たちは世の光」

問い合わせ

日本キリスト改革派 恵那キリスト教会のホームページへ戻る

2023年06月04日 朝の礼拝「私たちは世の光」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 5章13節~16節

聖句のアイコン聖書の言葉

5:13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
5:14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
5:15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
5:16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 5章13節~16節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:塩や光は周りに影響を及ぼす
 今日の箇所で主イエスは、天の国の民がどのような存在であるかについて、「地の塩」「世の光」という二つの比喩を用いて教えておられます。
 ではそもそも、その「塩」と「光」には、一体どのような共通点があるのでしょうか。第一に、塩と光はどちらも、私たちが生きていくのに欠かすことが出来ない必要不可欠なものです。
 そして第二に、塩と光はどちらも僅かな量であっても、周りのものに対して影響を及ぼす性質を持っています。そこでこの「塩」や「光」と同じ特徴がキリスト者にも当てはまります。日本においては、私たちキリスト者は特に数の上では少数ですし、それぞれの学校や職場、地域においてたった一人のキリスト者であるというケースも珍しくありません。
 しかし、たとえ僅かな人数であっても、この町に日曜日ごとに教会に集まって、神を礼拝する天の国の民がいるということには、意味があるのです。そして皆さんがたった一人のキリスト者としているということによって、周りにいる他の人々に及んでいく神の恵みと祝福があるのです。そういう意味において私たちキリスト者は、たとえ数の上では少数であっても、同じ社会に生きる他の人々に影響を及ぼす力を持っているのです。
 
Ⅱ.塩と光の異なる特徴
 では次に、塩と光が持っている異なる特徴は何でしょうか。「塩」が持っている固有の性質は、塩がそのままの形ではなく周囲の物質に溶け込むことで、周りに影響を及ぼす働きをするという点です。私たちキリスト者の働きは、ある面でこの“塩”のように、世の中と、そしてそこに生きている人々の中に私たちが溶け込んでいって、そこで社会と一体となって行われる働きです。教会の中だけがキリスト者として生きる場所なのではありませんし、私たちは、それぞれが遣わされている生活の営みの中で「塩」の役目を果たすことによって、この社会の中で神の国を実現していくという働きを担っているのです。
 そして、もう一つの「光」が持っている特徴は、ちょうどその「塩」とは逆です。塩が周囲のものに溶け込むことによって影響を及ぼすのに対して、光はむしろ、周囲とは異なる自らの存在を積極的に現すことによって働きをするのです。塩の働きが、世の人々の中に溶け込んでいって、彼らと共に生きる働きであるとすれば、「世の光」としての働きとは、私たちが世の人々とは異なる天の国の民の姿を人々の前に示して影響を与えていくという「伝道的な働き」です。
 教会には、世の中に出て行って同じ社会の中で生きる人々と共になす「塩」の働きと、その世に対して神の福音の光を高く掲げて人々を照らすという「光」の働きの二つの側面があるのです。それは教会が前に進むための車輪の両輪として、どちらも大切な使命であるということを強く覚えたいと思うのです。

Ⅲ.主イエスはまことの地の塩、世の光
 ですから主イエスは、教会が地の塩、世の光としての働きをなす事が出来ずに周囲に対して何の影響も及ぼさないとすれば、そのような教会は「塩気を失った塩」であり「枡の下に隠された灯」のようなものであると語っておられます。私たちキリスト者もまた、この社会の一員として果たすべき責任を負い、世に遣わされて生きていかなければなりません。しかし、そこで私たちがあまりにも周囲の人と同化しすぎて、他の人々の言葉や態度と何も変わらないのであれば、それは塩気を失った塩のようなものです。
 同様に光もまた、人々の前に掲げられることによってはじめて、周囲を照らすという光本来の働きをなすことが出来るのです。そこで主イエスはここで弟子たちに「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。」という命令形の言葉で語り掛けています。それはしかし、自分自身が幸せになるためや称賛を受けるためでなく、「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになるため」なのです。
 もちろん本来の私たちは、この世の人々を味つけることの塩でも、世の暗闇を照らすことの出来る光でもありません。むしろ私たちは、塩気を失った塩、枡の下に隠された光と同じように、神のみ前に何の役にも立たない者として、捨てられ、滅ぼされなければならない者でした。しかし、その私たちを天の国の民として生かすために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さったのが主イエス・キリストでした。この主イエスこそが、死すべき者に永遠の命を与えることがお出来になる地の塩であり、世の罪の暗闇を照らすことがお出来になるまこと命の光です。そして、そのまことの地の塩、まことの世の光であられる主イエスが共にいてくださって、私たちを「地の塩」「世の光」と呼んでくださるのです。

Ⅳ:内なるキリストの光を輝かせ続けよう。
 神は、弱く小さな私たちを、人々にご自分の福音を告げ知らせて、隣人愛を実現し、まことの平和を実現する、この世界に欠かすことの出来ない大切な存在だと言ってくださるのです。ですから、私たちは自分で塩味をつけて地の塩になるのでも、自分を必死に輝かせて世の光となるのでもありません。たとえ自分ではそう思えないとしても、私たちは今もうすでに、主にあって「地の塩」であり「世の光」なのです。大切なのは、塩が塩であり続けることであり、灯を隠さずに、それを人々の前に掲げ続ける事です。
 もし私たちが、塩気を失ってしまえば、誰が皆さんの家族のために祈り、愛を示して、天の父をあがめるように導くことが出来るでしょうか。もし私たちが福音の光を掲げなければ、誰が皆さんの友人や職場の仲間にキリストの福音を届けてくれるのでしょうか。他の誰でもない、私たち一人一人が、それぞれが遣わされているその場所で、隣人を愛し、神の福音を届けるために立てられている地の塩、世の光なのです。
 たとえ僅かな光であったとしても、私たちの内なる光であるイエス・キリストを掲げて、世の人々と共に生きるなら、その真の光が、私たちの家族や世の人々の心を照らし、彼らもまた天の父なる神をあがめるように働いてくださるのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す