17節で主イエスは、『わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない』と述べています。「律法と預言者」は旧約聖書全体のことを指しています。そして山上の説教の終りに近い7章12節で主イエスは『だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。』と述べておられます。つまり、この山上の説教全体の主題が、主イエスがご自分の弟子たちに対して示された「天の国の民の律法について」なのです。その天の国の民の律法についての序文(導入)にあたる箇所で、主イエスは『律法と預言者』に対するご自分の態度を明らかにしておられます。
そのことがはっきりと現れているのが、17節、18節の言葉です。ここで主イエスははっきりと、自分は旧約聖書を廃止するために来たのではない、むしろ律法を完成させるために来たのだと述べておられます。この「廃止する(カタリュオー)」、「カタ(完全に)」と「リュオ―(ばらばらにする)」が合わさったものです。ですから、「廃止する」とは、ばらばらに分解して役に立たないものにしてしまうということです。律法について言えば、一つ一つの教えや預言をばらばらに分解して、全体を無意味にしてしまうということです。
そのような「律法を廃止する」ことの対極にあるのが「律法を完成する」ということです。「完成する」という言葉は、「満たす」「いっぱいにする」という意味の言葉で、別の箇所では「成就する」「実現する」とも訳されています。主イエスが律法を廃止するためでなく、完成するために来られたというのは、このお方が旧約聖書で命じられた律法と預言を、実際に行動によって実現する「律法の完成者」なのだということを意味しています。そして続く18、19節で主イエスは、旧約聖書やその教えをを軽んじる者は「天の国において最も小さな者と呼ばれることになる」とも言われています。
そもそも、旧約聖書の律法と預言がなければ、私たちはその完成者としての主イエスの働きを理解することはできません。ですから新約を正しく理解するためには、旧約聖書を読むということが必要不可欠なのです。そして主イエスは旧約の律法と預言に込められた神のみ旨を正しく弟子たちの前に表して、神の言葉の持つ真の意味を示してくださった旧約の正しい解釈者です。ですから、この旧約聖書と言う書物の意味を、本当の意味で正しく理解することが出来るのは、イエス・キリストを通して旧約を読むことが出来る、私たちキリスト者なのです。私たちは、新約聖書の時代を生きているクリスチャンだから、もう古い旧約聖書は読まなくても良いということでは決してありません。クリスチャンだからこそキリストという旧約の完成者を通して旧約を読み、そこに込められた神様のみ旨を学ばなければならないのです。
主イエスは20節で『あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。』と述べておられます。「律法学者とファリサイ派」は、旧約聖書の律法の専門家たちです。彼らは現代の私たちからすれば、信じられないくらい厳格に旧約聖書の律法の規程を守ろうとしていた人々です。そういう律法の専門家よりも優れた「義(よい行い)」を持っていることが、あなたがたが天の国に入る最低条件であると主イエスは言われるのです。
しかし主イエスはマタイ23章23節で、そういう律法学者やファリサイ派たちを非難しておられます。彼らは律法に書かれている細かい規定を忠実に果たそうとしましたが、そのように律法の教えをばらばらに分解して細かい枝葉の部分を守ることに一生懸命になっている内に、律法の最も中心となるものをないがしろにして律法全体を無意味なものにしてしまいました。
ですから、問題は私たちが彼ら以上に細かく、厳格に律法の一つ一つの規定を守るということではありません。問われているのは、量の問題ではなくて、質の問題です。私たちが、律法学者たちが失っていた律法の本質を、その精神をつかんでいるかどうかが問われているのです。
では、その律法の最も大切な本質とは何でしょうか。別の箇所で主イエスは、律法学者からの「律法の中でどの掟が最も重要か」という質問に「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』(申命記6章5節)という戒めと、『隣人を自分のように愛しなさい。』(レビ記19章18節の)の二つの戒めを挙げて「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」とお答えになりました。そしてこの「神を愛し、隣人を愛する」という「愛の原理」こそが、律法学者やファリサイ派がないがしろにしていた、律法の中心にある原理です。律法は本来、私たちを「神を愛し、隣人を愛する」ことへ導くための、愛の実践の方法を教えているものなのです。
キリストは、律法学者やファリサイ派がバラバラにしてしまった律法を、「愛」という本来の原理によって、もう一度一つに結び合わせてくださいました。そして、その愛という律法の本質を、改めて弟子たちにお示しになられたのです。しかも、ただ言葉で語るだけでなく、十字架において律法が持っていた愛を実現してくださったのです。その意味において、このキリストこそが「真の律法の完成者」なのです。
私たちは、自分の力では、旧約の律法の最も小さい戒めですら守る事が出来ない、天の国で最も小さい者であります。私たちは自分の力で律法を満たして完成させる事は出来ませんし、律法学者やファリサイ派に勝る義を獲得することも出来ません。それはただ主イエス・キリストが私たちに代わって、その良い行い、正しい行いを成し遂げてくださることによって与えられる「キリストの義」です。このキリストの愛の義に結ばれて、このお方が成し遂げてくださった「律法学者にまさるキリストの義」を頂くときに、私たちは天の国の民となる資格を与えられるのです。
そのようにキリストを信じる信仰によって、キリストの義を頂いている私たちは、ではもう自分では何もしなくても良いのでしょうか。私たちが、キリストの義をあたえられたのは、単なる偶然や幸運ではありません。それは、イエス・キリストが十字架で血潮を流されて、ご自分の命を投げ出す事によって獲得してくださった命がけの義です。そしてキリストはその命の代償を、私たちに無償で与えてくださったのです。それは、まさしくキリストの私たちに対する「愛」です。私たちはキリストの愛によって義とされたのです。
そのキリストの愛を受けて、キリストの愛によって生かされている私たちは、もう救われるために愛するのではありません。私たちは、自分では律法学者やファリサイ派にまさる義を持ちえない、そういう自らの弱さを知りつつ、しかしキリストの愛に救われた者として、その愛に答えて生きたいと願い、そして自らもキリストのように神を愛し、隣人を愛する者でありたいと願うようになるのです。
そのキリスト者が愛に生きるための道を具体的に示しているのが、この山上の説教で語られている天の国の民の律法です。キリストは、ご自分の命をもって買い取られた、ご自分の民に対して「神を愛し、人を愛する者」として生きる道を示してくださったのです。聖書は、私たちをそのような愛に生きる者へと変える力を持っているのです。