主イエスはその山上の説教の最初の六つの教えで、律法についてのユダヤ教の従来の理解を述べた後で、「しかし、私は言っておく」と述べて律法の正しい理解を語るという仕方で弟子たちに語っています。
そこで、主イエスはまず「殺してはならない」という十戒の第六戒を取り上げます。教会学校の子どもたちももちろんそうですが、もしかしたら私たち大人もこの第六戒を文字通り「殺人を禁止する命令」として理解しているのではないでしょうか。ところがここで主イエスは「そういうあなたたちのこの戒めの理解は間違っている」と言われるのです。すなわち、律法の言う罪とは外側の行動だけではなくて、それらの行動を生み出す心の中の怒りや憎しみそれ自体を指していると教えておられるのです。
しかし世の中には、私たちが腹を立て手も仕方がない、あるいは腹を立てるべき正当な怒りがあって、怒るべき正当な理由があれば怒りは罪とはならないのではないか、これが私たちの正直な思いなのではないでしょうか。しかしそもそも怒りとは、自分自身を基準にする限り必ず正当な理由があるのです。私たちは、たとえば犯罪者の怒りや憎しみと自分の怒りを区別して、私の怒りには正当な理由があると考えますが、それこそが律法学者やファリサイ派の義なのです。
ではどうなのでしょうか。私たちは今朝の主イエスの言葉を受けとめて、怒りや憎しみを心から追い出すように自分自身を鍛え、修練していかなけれはならないのでしょうか。しかしそれでは結局のところ、「殺してはならない」という命令が「怒ってはならない」というより厳しい命令に代わるだけです。しかし、主イエスが語られる律法は、むしろそのような外面的な律法の理解から私たちを解き放って「神を愛し、隣人を愛する」という律法の本質へと私たちを向かわせる福音なのです。
23節の言葉に目を移しますと、主イエスはここで単に「あなたがたは怒ってはならない」という禁止命令を語っておられるのではなく、私たちをより積極的な和解へと導こうとしておられるということに気が付きます。
23節の「祭壇に供え物をする」という言葉は、エルサレム神殿で捧げる神礼拝のことを指しています。はるばる神殿にやって来ていざ礼拝を捧げようとした時に、もし誰かが自分に反感を持っていることを思い出したなら、捧げ物はそのままにしてまずその相手と和解をしなさいと言われるのです。この言葉は、ひとつの誇張した表現ですから、主イエスはここで神を礼拝することよりも隣人と和解することの方が大切であると言っておられる訳ではありません。主イエスがここで言おうとしているのは、怒りや憎しみを解いて隣人と和解することの大切さと緊急性であります。この22節では、相手と自分のどちらに非があるのかということには一切触れられていません。そのことを一切問わずに、あなたが「まず行って」和解の道を探りなさいと言われているのです。
そして続く25、26節にもやはり同じように、争いを抱えている者と早く和解するようにとの呼びかけが語られています。しかもこの場合はこちら側に非があって、放っておくと訴えられて有罪になる可能性が大きいと思われます。そして「最後の一クァドランス(ローマの最も小さな硬貨の単位)を返すまで、決してそこから出ることはできない」とのだから、そうなる前に一刻も早くその相手と和解しなさいと言われるのです。「はっきり言っておく」という言葉は「アーメンに言う」という表現で、これは主イエスが救い主としての重大な宣言を人々に語る時に用いられる言葉です。この主イエスの言葉には、目の前にいる人と和解せよという呼び掛けに留まらない重大さがあります。そこでは、やがて人間が最終的に必ず通らなければならない神の最期の審判が重ね合わせられているのです。今、私たちは幸いにもまだその裁判の場へ向かう旅の途中にあるのです。今はまだ神と和解する時間が残されています。しかし、明日はどうか分かりません。だから主イエスは、その裁きの場に着かなければならない日が来る前に「一刻も早く和解しなさい」と呼び掛けておられるのです。
私たちにとって怒りを捨てるということ、特に自分が正しいと思っている相手に対してこちらから和解の手を差し出すことは決して簡単な事ではありません。だからこそ、神が私たち罪人に対するご自分の正当な正しい怒りを解いてくださって、ご自分の御子を通して和解の手を差し伸べてくださったのです。このキリストの十字架において「殺してはならない」という命令は、もはや私たちが自分で努力して達成しなければならない戒めではなく、それは神の御子が、私たちに変わって十字架で成し遂げてくださった「恵み」となったのです。このお方こそ、その驚くべき十字架の愛の業によって、私たちを怒りや憎しみから解き放ち、許しと和解へと向かわせることが出来る「真の律法の完成者」であり「真の救い主」なのです。
今日ここにおられる方の中で、まだこの主イエスによる神との和解を経験していない方には、今がその神との和解の機会が与えられている恵みの時であるという事を今日知って頂きたいと思います。神は御子にあって皆さんの罪に対する怒りをすでに解いて、和解の手を差し伸べておられます。主イエスを信じてその手をつかむ時に、人間は怒りから和解へと向かうその第一歩を踏み出すことが出来るのです。
そして、すでにキリストを通して神との和解の恵みを与えられている方の中で、もし今、心の中で誰かに対する怒りや憎しみを抱いて苦しんでいる方がおられましたら、今はその相手と和解するために与えられている恵みの時であることを覚えたいと思うのです。
怒りを解いて和解の道へ一歩を踏み出すことには、大きな痛みを伴います。それは楽な道でも、平坦な道でもないかも知れません。しかし主イエスが十字架において、すでに私たちのためにその愛の業を始めてくださったのです。そしてその主が、私たちも赦しと和解の道を歩むことが出来るように、聖霊を通して私たちを助けて下さるのです。だから私たちは、明日に伸ばすのではなくて、今日隣人に対する自分の心の怒りを解いて、和解と平和の道へ一歩を踏み出そうではありませんか。