前回の箇所で主イエスは、「殺してはならない」という律法の戒めから、「兄弟に対して怒りや憎しみを抱く罪」について語られました。そして続けて今朝の箇所で主イエスが取り上げている戒めは「姦淫」と「離婚」に関する戒めです。つまりそれは、人間の「性」と「結婚・夫婦関係」の問題についてです。
最初の27節では、十戒の第七戒「姦淫してはならない」という戒めが取り上げられています。 そしてここでも主イエスは前回と同じ論理を展開して、第七戒が禁じているのは、姦淫という行為そのものではなくて、その行為を生み出す「情欲」そのものであるという理解を示します。そもそも聖書は、あるいは主イエス御自身も、男女の性的な関係それ自体を罪であるとか汚れたものであるという風には教えていません。第七戒が禁じているのは、神が本来意図しておられた結婚関係の祝福を壊してしまう行為を生み出す情欲そのものであるという事を、主イエスは述べておられる訳です。
そして続けて離婚についての規程が取り上げられています。申命記の中でモーセは、「妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」ことが出来ると記しています。モーセが離縁状を書くようにと命じたのは本来、前の夫と正式な離婚したということを証明して、女性の権利と生活を守るという目的がありました。ところが主イエスの時代には、この律法の規程が男性に都合よく解釈され、ほんの些細な理由であっても離縁状を書けば離婚できるという理解が広がっていたのです。
そこで主イエスはそういう「不法な結婚でもないのに妻を離縁する者」、更に「離縁された女を妻にする者」はどちらも「姦通の罪を犯すことになる」と述べておられるおのです。この時代、離縁された女性が生きていくためには、誰か別の男性と再婚するしか選択肢がありませんでした。ですから主イエスは、生きるためにそのような選択肢をせざるを得ない女性ではなく、そういう状況に追い込んだ男性の側の罪を問うているのです。ここには当時、社会的な立場が弱かった女性という存在に対する、主イエスの憐れみ深い眼差しが現れています。
聖書における結婚は、そもそも創造の初めから神によって定められたものです。創世期には最初の人類であるアダムが、妻のエバを初めて見た時に「これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉」、つまり「一心同体だ」と言ったことが記されています。更に二人はこの時、互いに裸であったのに恥ずかしいとは思わなかったということも記されており、ここでは「性」も恥ずべきものとして取り扱われていません。アダムとエバはこの時、互いの自然な姿を見つめ合い、その相手を心から受け入れて愛し合うことが出来る関係が存在していたのです。そしてこれこそが神が本来意図されていた結婚の祝福の姿です。それは夫婦間に留まらない、すべての人間関係における隣人愛の本来のあり方であり、私たちは本来、こういう愛を持って他者と愛し合う事が出来る存在として神に創造されたのです。
しかし、人間が神に背いて堕落してしまった結果、アダムはかつて「私自身だ」と表現した女性を「この女が私を唆したのです」と指さして非難したのです。こうして人間は、想像の初めに持っていた他者と愛し合う事が出来る能力を失ってしまい、その結果自分にとって最も身近な存在である伴侶に対してでさえ、愛の関係を築くことが困難になったのです。
今朝の箇所で主イエスが語っておられるのは、単に「離婚してはならない」という禁止命令や「不貞行為があれば離婚しても良い」という条件の問題ではありません。「料理がまずい」という理由で妻を離縁しようとしたユダヤ人たちのように、神によって結びあわされた伴侶に対してでさえ怒りや憎しみを募らせて、神が祝福された結婚関係を壊してしまう私たちの罪、それが第七戒で禁じられている「姦淫の罪」に他ならないのです。
29節、30節で主イエスは「29:もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。・・・30:もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。」という大変厳しい言葉を語っておられす。目や手は私たちにとって無くてはならないものであり、ここで主イエスは「あなたの妻は、あなたの夫は、そのあなたの目や手よりももっと大切な存在ではないか」と言われるのです。主イエスは、そのように最初の愛の姿を失ってしまった私たちが、神が祝福として与えられた結婚関係の本来の姿をもう一度回復し、それをあるべき形で清く保つことが出来るようにするために、その本来の恵みと祝福を示しておられるのです。
しかしそう言われたからと言って、私たちは長年積もり積もった怒りや不満を簡単に捨て去ることは出来ません。仮にそれらの怒りや不満を一生懸命に抑え込んで我慢したとしても、それで本当の意味で相手との愛の関係を築くことが出来るかと言えば、残念ながらそうではありません。結局のところ、そのような努力によっては、私たちは自分勝手な仕方で他者との愛の関係を築くことから逃れられませんし、どこまで行っても互いを傷つけあうことにしかならないのです。けれどもイエス・キリストは、そのような自分勝手な愛しか持ちえない私たちを、自分の目や手以上に大切なものとして愛して下さり、その私たちのために、目や手だけでなくご自分の体全部を捨てて、その命を十字架で投げ出してくださいました。
それはつまり父なる神ご自身が、罪深い私たちをご自分の独り子よりも大切な者として選び、ご自分の目をえぐり出し、手を切り捨てて下さるほどまでに愛して下さったということです。今や、私たちの結婚・隣人愛におけるあるべき愛の姿は、アダムとエバの関係ではなくて、このキリストが私たちとの間に結んでくださっている愛の関係となったのです。
私たちは、自分に近い相手を愛することが現実にはどれ程困難な事かということを良く知っています。しかし主イエスは、そのように自分に最も誓い隣人を愛することができない私たちを、なおも十字架の血潮を持って赦し、無償の愛をもって愛してくださったお方です。そしてこのお方が、私たちが互いを愛し合い、赦し合うことの出来るように、私たちの家族がそういう真の隣人愛で結ばれることが出来るように、私たちの家庭の主となって導いておられるのです。