説教要約:
前回、前々回と主イエスは、「怒りや憎しみ」、「性」と「結婚関係」の問題という、私たちにとって身近な問題を取り上げておられました。しかし今日の「誓い」という主題はそれらと比べると、どこか今の私たちの日常とは関りがない印象を抱くのではないでしょうか。
しかし旧約聖書においてはこの誓いという宗教行為、特に神に対して誓いを立てるという行為は、大変重い意味を持ちました。旧約聖書において「誓い」の重みが最もよく表れているのが、士師記に登場するエフタの物語です。エフタは、イスラエルの軍事的指導者でしたが、ある時彼は、戦いに勝利することが出来たなら、家に帰ってきた時に真っ先に迎えに出た者を神に捧げるという誓いを立てました。そしてエフタが戦いに勝利して帰って来た時に、彼を真っ先に迎えたのは彼のたった一人の娘でした。結局彼はその自分の誓い通りに自分の一人娘を生贄として捧げました。聖書はこのエフタの軽率で愚かな誓いと、その結果彼が引き起こした悲劇について否定的な見方をしています。しかしそこでも、神に対して誓ったことは必ず果たさなければならないという原則が貫かれています。
そのようにユダヤ人とって誓い、特に神の名によって誓ったことは、それは絶対に果たさなければならないという、大変重い意味を持っていました。ですからユダヤ教の教師たちは、人々に出来るだけ誓いを避けるべきであると教えていました。しかし今朝の箇所で主イエスは「誓いを出来るだけ避けなさい」というだけでなく「一切誓いを立ててはならない」と教えておられます。しかし私たちの社会はすべてある約束事の上に成り立っていますし、教会においても洗礼や信仰告白など、折につけて私たちは神と教会の前に誓約することを求められます。ですから信仰者は一切の誓約をしてはならないというのであれば、そもそも教会を建て上げるということさえ不可能になってしまいます。
ここで主イエスが「あなたがたは一切誓ってはならない」と述べているのは、当時の人々の間で誓いという行為が軽く扱われていたという現実が背景にあります。もちろん神にかけて誓うという誓約は、ユダヤ人にとって簡単に破る訳にはいきません。そこで「神」以外のもの、「天」「地」「エルサレム神殿」にかけて誓うという行為が横行していたのです。そして「私はこれを誓います」と言った事とそれ以外を区別して、誓いではない言葉については、責任を負おうとしないという傾向が生まれました。そのように人々が軽々しく誓いを立てている事に対して、主イエスはその誤りを指摘したのです。
現代は、言葉の重みが軽い時代です。私たち一人一人が語る言葉の重みや責任というものが、改めて問われているのが今という時代なのではないかと思います。そこで主イエスは37節で「37:あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである」と述べられます。たとえ神にかけて誓った言葉であろうと日常的な会話であろうと、あなたがたが語る言葉はすべて神の前に語られている言葉なのであって、だからその言葉には責任が伴うと述べておられるのです。そうであれば、今日のこの「誓ってはならない」という戒めの言葉は、現代の私たちには関係のない教えではなく、私たちの信仰生活に深く関わっている問題であると言う事が出来ます。
しかし私たちがいつも偽りのない真実の言葉だけを語るということは、それこそ言葉で言うのは簡単だけれども、実際にそれを行うことは大変難しいことです。洗礼や信仰告白の時の誓約、長老や執事に任職された時の誓約、結婚の誓約。神と教会の前に誓約した言葉を、私たちは一体どれだけ真実の言葉として守って来られたでしょうか。主イエスはそのような私たちの現実、弱さを知っておられ、『あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。』と述べておられます。 確かに、もしこの主イエスの命令に私たちが従おうとするならば言葉を語るという事を一切やめてしまうしか方法がないのではないでしょうか。
しかし別の箇所で主イエスは、神はそのあなたの髪の毛の一本までも知っておられ、御支配しておられると述べておられます。(マタイによる福音書10章29-30節)髪の毛一本、すなわち、私たちの日々の生活やそこで語られる言葉の一つ一つに至るまで、私たちのすべてを神が導いておられ、そのすべての言葉を真実のものとして下さるのです。使徒パウロが告白していますように、「ご自分の民を必ず救い出す」という神の誓いは、キリストの十字架において確かにその誓いが果たされたのです(Ⅱコリント1章18-19節)。神は、キリストによって救われた私たちが、自分の誓いを果たす責任を恐れて言葉を失うことを望んでおられるのではありません。私たちがキリストに信頼して恐れず大胆に神の御心に対して「然り」「アーメン」と答えることを望んでおられるのです。
それは、私たちが自分の力によっては果たすことが出来ない誓いです。しかし十字架の死に至るまでただ真実の言葉のみを語られた神の御子が、私たちの誓約を真実のものとして完成してくださるのです。そのことに信頼して私たちは、自分の弱さや不誠実さを乗り越えて、神の呼びかけに対してアーメンと答えて、教会に仕える働きに一歩を踏み出す勇気を与えられるのです。