Ⅰ:復活を信じられない人々
イースターのことを、日本語では「復活祭」と呼びますが、この呼び方は、英語の「イースター」という名前に比べると、もう一つ一般には浸透していないように思います。「復活祭」と言うと、宗教的な印象が強くなりすぎるのかも知れませんが、もしかしたら「復活」という概念自体が、日本人の感覚にはあまり馴染まないのも理由の一つではないでしょうか。
現代の日本人の死生観は、特定の宗教に基づかず、色々な宗教や哲学の死生観が組み合わさった多様な死生観を生み出していますが、神道にしろ、仏教にしろ、日本人の伝統的な死生観の中には「復活」という概念はありません。聖書は、やがてこの世の終りの日に、死者の復活と最期の審判が起こると教えていますが、この教えが、多くの日本人にとってキリスト教を信じることが出来ない大きな理由になっているのではないかと思うのです。
ですから、この「死者の復活」という聖書の教えを聞いて、もし皆さんがそんな事は信じられないと感じたとしても、それは何の不思議もありません。そして恐らく多くの人は、「聖書に出てくる人たちは、約二千年前の迷信深い時代を生きた人たちだったから、この『復活』という出来事を信じることが出来た」と考えています。しかしそれは大きな誤解です。なぜなら二千年前の人々にとっても、死者が甦るということは非現実的な教えだったからです。
Ⅱ:「死者の復活」を否定する背景にあるもの
そして「死者の復活」という教えを信じることが出来なかったのは、教会の外にいる人たちだけではなく、聖書の教えを信じて教会の仲間に加わった人たちの中にも、「死者の復活」を信じられない人々がいたということが、今日の箇所から明らかになります。
今日のみ言葉は、伝道者パウロがコリントという町の教会の人々に宛てて書いた手紙の一節です。パウロはこのコリントの町に一年と六カ月の間滞在して、死者の復活を含む聖書の様々な教えを人々に語り、この地に教会が立てられました。ところが、やがてパウロがこの地を去ると、この教会の中から「死者の復活」という教えを否定する人々が現れたのです。
12節の文章を見ますと、コリント教会の人々がキリストが復活したという教えも否定したように思えるかもしれません。しかし彼らはキリストが三日目に復活したという「キリストの復活」を否定したのではありません。自分たちがそのキリストと同じように肉体を持って甦るという「死者の復活」の教えを否定したのです。
それでは、なぜコリント教会の人々は、「死者の復活」を否定したのでしょうか。その背景の一つには、最初に教会の仲間に加わった者たちの中から年老いて死んでいく者たちが現れ始めたという事がありました。‟キリストは死んで三日目に復活したのに、彼らはいつまで待っても一向に甦らないではないか”と考える者が現れ、やがて死者の復活それ自体を疑うようになったのです。
もう一つ、彼らの中には、人間の「肉体」というものは汚れたものであると考える人々がいて、人は死んだ後、魂のみが霊魂の世界へ行くのであって、肉体の復活などはないと主張したのです。
この考え方は、現代の日本人の死生観にも、もしかしたら似ているところがあるかも知れません。
そして最後にもう一つ、イエス・キリストを信じて教会で洗礼を受けた時に、それまでの罪を悔い改めて新しい人間として生まれ変わった、「死者の復活」とはそういう「魂の再生」について語っているのだという理解がありました。ですからそういう意味で「死者の復活」は、洗礼を受けた時にすでに起こっているのだ、という理解が教会の中に出てきた訳です。
Ⅲ:もし復活がないなら
しかしパウロははっきりと、もしキリストの復活が事実でないなら、死者の復活もあり得ないし、そうであればあなたがたは今も罪の中に生きていることになるのだ、と述べて、肉体の甦りを抜きにしては魂の再生もありえないと述べています。そうであれば、今自分たちがしている宣教の働きは無駄であるし、そもそもキリストの復活に望みを置いて生きているクリスチャンは、世の中で最も愚かで虚しい生き方をしていることになる、とまで述べています。
さらに今日の箇所のもう少し先のところ、同じ15章32節では『もし、死者が復活しないとしたら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります。』と述べています。実際、現代人の多くの人が、どうせ自分はいつか死ぬのだから、生きている間に好きなことをして、この世で自分の欲求を満たすことを人生の目的として生きています。確かに、もし私たちの人生が、肉体の死を持って終わり、死者の復活や世の終わりの裁きがないのであれば、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」と言って人生を謳歌して楽しむべきではないでしょうか。
現実に、仕事やお金、趣味のサークルやボランティア活動、恋人や友達との付き合いは、時に私たちに希望や喜びを与えてくれます。また悲しみや試練を乗り越える手助けをしてくれることのあります。しかしそれらのものは、そのような助けにはなるとしても、いつか必ず襲い掛かってくる「死」という敵から皆さんを守ることは出来ません。ですからある神学者は、この世のあらゆる希望は、人間を死の一歩手前までしか連れて行くことは出来ないと述べています。この世のあらゆる希望は、この死に打ち勝つことは出来ず、死によって私たちが持っているものはすべて取り去られるのです。そうであれば、それらのものに望みをかけて生きる人生は、全く虚しい生き方であると言わざるを得ません。そしてもし、この死に打ち勝つことが出来る希望があるとすれば、それこそが本当の希望となり得るのではないでしょうか。
Ⅳ:死を超える希望はここにある
聖書は、イエス・キリストにこそ、このまことの希望があると教えています。もし聖書に書かれているように、キリストの復活が本当に起こったのであれば、そのキリストを信じる者もまた、死を乗り越えて、復活することになるという、この聖書の約束もまた真実です。そうであれば、キリストを信じる者にとって、死は終わりではありませんし、あるのかないのかよく分からない「あの世」に行くのでもありません。私たちのこの地上の生涯は「死ぬ」ための人生ではありませんし、むしろ死者の復活を通して永遠の命を得るためにあるのです。
そして二千年前のイースターの朝、イエス・キリストは本当に死から甦られたのです。死を超えるまことの希望は、ここにあります。そのキリストの復活を信じる者は誰でも、肉体の死によって終わる人生ではなく、肉体の死によって本当の命の始まりを迎える、本当の価値ある人生へと一歩を踏み出すことが出来るのです。