2023年07月16日 朝の礼拝「愛は憎しみを超えて」

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2023年07月16日 朝の礼拝「愛は憎しみを超えて」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 5章38節~42節

聖句のアイコン聖書の言葉

5:38 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。
5:39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
5:40 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。
5:41 だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。
5:42 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 5章38節~42節

原稿のアイコンメッセージ

 ここで主イエスはこれまでと同じように、まず当時の一般的な律法の理解を述べます。「『目には目を、歯には歯を』」という言葉は、旧約聖書の出エジプト記21章他に出てくる律法の規程です。このような法律を「同害報復法」と呼びます。この法律は、旧約聖書だけではなく古代において広く共有されていた法の理解でした。
 この言葉はすでに一般的な慣用句として日本語でも用いられるようになっていますが、その場合には「やられたらやり返せ」という復讐を推奨する意味で使われます。しかし同害報復法の本来の主旨は、過剰な復讐を防ぐために、相手が与えた以上の損害を与えてはならないということです。しかし当時のユダヤ人たちもまた、この規定を復讐する権利を保証する律法であると理解し、律法が本来持っていた主旨が失われることになりました。それに対して主イエスは「あなたがたキリストの弟子は、一切復讐してはならない」という驚くべき律法の理解を示されたのです。

 最初の「だれかがあなたの右の頬を打つなら・・・」という言葉も、キリスト教の愛の精神を象徴する言葉として広く一般の人に知られています。普通右利きの人が、右の手で相手の右の頬を打というとすれば、手の平ではなくて甲で相手を叩くことになります。この行為は、ユダヤ人にとって相手に対する侮辱を示す行為でした。そこで主イエスは、そのように自分を侮辱しようとする相手に、右の頬だけではなく左の頬も叩きやすいように差し出しなさい、と教えておられるのです。
 二つ目に述べられているのは、「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」という例です。旧約聖書の律法では、たとえ誰かに借金があった場合でも、上着だけは最後まで自分の財産として手元に残しておくことが出来る権利が保証されていました。ところが主イエスはその貧しい者に最低限保証されている権利でさえも進んであげてしまいなさいと言っておられるのです。
 そして三つ目の例は「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」という言葉です。ローマの軍人は、必要があれば一般市民に対して強制的に物を運ばせることが許されていましたが、その運ばせることのできる距離がこの「一ミリオン」でした。ユダヤ人にとって被征服者であるローマ軍人から、一ミリオン荷物を運ぶように強要されたなら、その倍の距離運んでいきなさいと命じておられるのです。
 
 ここで言われている主イエスの命令は、どれも私たちが生きているこの現実とはあまりにもかけ離れています。もちろん、過剰な復讐をするということは抑制されなければなりません。しかし世の中にはいじめや不当な差別によって苦しめられている人がいます。そのような人たちが相手からの暴力や侮辱に何の抵抗もせずに耐え忍ばなければならないのだとすれば、この世界は弱い者がいつも虐げられるということになってしまうのではないでしょうか。もし主イエスがここで、そういう社会の現実を無視して語られているのだとしたら、それはあまりにも無責任な言葉なのではないでしょうか。
 しかし主イエスは、決してそういう私たち人間の現実を知らなかった訳でも、無視しているのでもありません。マタイ26章67節で『67:そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、68:「メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と言った。』とありますが、新約の中で「頬を叩く(平手で打つ)」という言葉が用いられているのは、今日の箇所と26章67節の二か所だけです。
 そして同じく「上着を取る」という言葉も『このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。』(27章31節)『彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた』(35節)と書かれています。そして41節の「行くように強いる」という言葉もマタイでは今日の箇所と27章32節の二か所にのみ出てくる言葉です。『兵士たちは出ていくと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。」
 今日の箇所で主イエスが示しておられる悪人に手向かわない者の姿は、まさに十字架のイエス・キリストのお姿そのものです。主イエスはまさにこの地上の生涯を通して「目には目を、歯には歯を」という生き方ではなく「右の頬を打つ者に左の頬を差し出す」生き方を示されたお方です。もし、ここで描かれている悪人に手向かわない人の姿が主イエスご自身のお姿であるとすれば、「悪人」とは誰のことでしょうか。私たちは自分がいつも誰かに頬を叩かれて、上着を奪われる側にいると考えていますが、しかし実は私たちこそが主イエスの頬を叩き、下着だけでなく上着も奪い取って丸裸にして、このお方をあのゴルゴダの十字架にかけた悪人なのではないでしょうか。
 そう考えるなら、今日の箇所で主イエスが語られている教えの一つ一つは、私たちがこれを守らなければ救われないという律法ではなくて、主イエスが悪人である私たちのためにして下さった愛と赦しの御業なのだと分かります。そして42節の御言葉は、主イエスが私たちに「あなたがたが私に求める愛と赦しを私は必ず与える。私の元に来るものに、私は決して背を向けない」と呼び掛けておられる愛の呼びかけに他ならないのです。

 今朝の箇所で主イエスが示されている教えは、今この世界においてはまだ完成していない、やがて来るべき神の国において完成する神の国の姿を反映しています。ですから私たちは現実には、理不尽な差別や攻撃に対してははっきりと抗議の姿勢を示さなければならない場面がありますし、暴力や犯罪行為に対しては警察や法の裁きに委ねることも必要になります。主イエスは今朝の箇所で、そういう事をすべて否定しておられるのではありません。しかしだからと言って、ここで主イエスが語られた神の国は、私たちの現実や生き方に何も影響を及ぼさない、単なる理想論が語られているのではありません。ここで主イエスが示された神の国は、この神の御子が私たちのところに来てくださったことによって、この現実の中ですでに始まっているのです。主イエスは十字架において、私たちの悪と背きをただ黙って耐え忍ばれて、私たちをご自分のものとして愛してくださいました。そして私たちを憎しみと復讐の連鎖から解き放ってくださり、主イエスの愛に生きる道へと招いてくださったのです。この主の愛のへ私たちが招かれているということは、私たちにとって躓きや重荷ではなく、真に幸いな招きであるのです。

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