Ⅰ.神の言葉と現実との乖離
エジプトを離れてミディアンの地で羊飼いとして暮らしていたモーセの元に、神から「私の民をエジプトの奴隷から導き出せ」という命令が与えられました。初めはその命令に従う事を渋っていたモーセでしたが、再三の神の命令を受けて、ようやく重い腰を上げたモーセは、兄アロンと共にエジプトの王ファラオの元へ行き、イスラエルの民をエジプトから去らせるように求めます。しかしファラオはモーセの言葉にまったく耳を貸そうとせず、イスラエル人に更に過酷な労働を課すようになりました。そして重労働に苦しむ民の怒りは、ファラオよりもモーセらに向けられることになりました。
そこで今朝の箇所で、今度はモーセ自身が、神に対して不平を述べます。ここでモーセは、神の言葉と目の前にある現実とのギャップに苦しんでいるのです。そして、私たちの目の前の現実を見渡す時に、その状況と聖書の御言葉がかけ離れているという現実にぶつかって苦しむことがあるのではないでしょうか。しかも真剣に御言葉に聞こうとしている人ほど、そういう御言葉と現実のギャップに悩み苦しむのです。モーセもまた神に対する失望と苛立ちを感じて「あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません」と訴えたのです。そのモーセの訴えに対して、神は「わたしは主である。」と答えられました。
この「ヤハウェ(主)」という言葉は、以前にも神が御自身の名としてイスラエルの民に示された“神の名前”です。そして3節でこれまでにアブラハムやイサク、ヤコブにはこの「ヤハウェ」という名前を知らせず、「全能の神」という名前で御自分を現わされたと述べておられます。この「全能の神」という呼び名が最初に登場するのは、創世記17章です。この場面は、神がアブラハムとの間に契約を結んで、彼の子孫にカナンの土地を永遠の所有地として与えると約束された場面です。そして神はアブラハムとの間に結ばれた約束を、今のこのモーセの時代に実現しようとしておられるのです。そしてその神の救いが今や新しい段階に入ったことを示すために、神はかつてアブラハムたちには示さなかった「ヤハウェ(私はいる、共にいる)」という名前で御自分を現わされたのです。
Ⅱ.神の言葉は永遠に変わらない
そしてモーセに改めて、彼らをエジプトから導き出すとお語りになります。そこでモーセはその神の言葉を携えて、再びイスラエルの人々の元へ赴くのですが、イスラエル人は厳しい現実に疲れ切っていて、もはや神の言葉を聞く気力さえ失ってしまっていたのです。そして11節で神は再び「エジプトの王ファラオのもとに行って、イスラエルの人々を国から去らせるように説得しなさい。」と命じられました。
私たちは時に、余りにも厳しい現実の出来事や様々な問題を前にして、聖書の御言葉が虚しく響いてくる、あるいは聖書を開く気力さえ失われてしまうということがあります。現実の問題が少しも解決しない中で、聖書の言葉と現実のギャップに絶望して「礼拝や信仰生活からも遠ざかっていってしまう人もいます。しかしそうやって礼拝や聖書の御言葉から離れていった人は、何か別のものによって本当に心の渇きを満たされることはないのです。なぜなら世の中にある希望は、すべて時代の状況や世の中の流れに合わせて変わっていくものだからです。ですからそれらのものは一時的な慰めや希望とはなり得ても、永遠の希望とはならないのです。もし神の言葉もそのように世の中の状況によって変えられていくのだとしたら、私たちはどうしてそこに永遠の希望を持つとが出来るでしょうか。
しかし目に見える現実がどうであれ、ファラオやイスラエルの民が誰一人として御言葉を聞こうとしていなくても、しかし神のご命令は少しも変えられず、動かされることもありませんでした。神はそういう暗い現実の中でなおご自分の揺るがない権威と力をもって「私は主である」とお語りになられるのです。
Ⅲ:私たちが救われる名
世の中がどうであれ、私たちを取り巻く現実の状況がどうであれ、真の神の言葉は永遠に変わることがありません。だからこそ私たちは、その神の言葉に心から信頼を置くことが出来ますし、その神の御言葉から離れてしまっては、私たちは本当の平安も、生きる希望も見出し得ないのです。この時モーセを通してイスラエルの民にご自分の名を「主」として現わされた神は、やがてこの地上に人となってお生まれになられた「イエス・キリスト」という神の御子の名前によって、御自分を現わしてくださいました。私たちが救われるのは、ただこの生ける神の言葉であるイエス・キリストというお方の名前によるのであって、他のどんな名前によっても人間に与えられる救いはないのです。現実の暗さや困難さに絶望するときに、そこで御言葉に聞くことをやめてしまうのではなくて、むしろその暗い現実の中で主イエスの名に信頼し、この主の御言葉に聞き続ける中でこそ、私たちは本当の希望や慰めを見出すことが出来るのです。
Ⅳ.神の時を待ち望みながら、主の御声に聞き続ける
神の約束がいつ実現するかは私たち人間の思いや尺度を超えた、神御自身の御旨によるものです。ですから私たちは、忍耐を持ってその時が来るのを待ち続けなければなりません。しかしそれがいつ実現するかは隠されているとしても、神が語られた御言葉は、やがて必ず実現するのです。今、私たちの目の前にある現実がどんなに暗くても、しかし神はその私たちの生きている現実にあって「私は主である」と今日も語り続けておられます。
私たちはこの神の御言葉に聞き続け、留まり続けるものでありたいと願います。そして不幸にしてこの世の現実に躓いてしまった者たちを覚えて、彼らに対しても諦めることなく、神の御言葉を伝え続ける者でありたいと願います。そしてその私たちの主にある忍耐は、決して無駄に終わるということはなく、その先には必ず大きな神の祝福と幸いが待っているのです。