2023年08月06日 朝の礼拝「敵を愛しなさい」

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2023年08月06日 朝の礼拝「敵を愛しなさい」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 5章43節~48節

聖句のアイコン聖書の言葉

5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
5:45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
5:46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。
5:47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。
5:48 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 5章43節~48節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ.敵を愛することの困難さ
 今日の43-48節は、ここまで主イエスが語って来られた天の国の律法についての結論にもなっています。
 43節の「隣人を愛しなさい」という命令は、レビ記19章18節の御言葉です。それに対して後半の「敵を憎め」という教えは、「隣人を愛せよ」という教えの反対命題として生まれてきた律法の解釈でした。その律法の理解に対して主イエスは、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とお語りになりました。しかしこの御言葉は、実際に私たちの生活において実現していくのは殆ど不可能とさえ思える命令です。
 例えば46節で言われているように、自分を愛してくれる人を愛するという事であれば(簡単とは言えないまでも)もしかしたら努力次第で出来るかも知れません。しかしそれは「徴税人でも、異邦人でさえも同じことをしているではないか。」と主イエスは言われるのです。世の人々が普通に持っている愛と、キリスト者の愛が何も変わらないのであれば「地の塩」や」「世の光」となることは出来ないのです。キリスト者は「敵を愛し、迫害者のために祈る」という特別な愛を示すことによって、地の塩、世の光としての姿を輝かせることが出来るのです。

Ⅱ.あなたの隣人とは誰か
 では、そもそもあなたの「敵」とは誰でしょうか。それは私たちを憎み、呪い、攻撃する者、私たちを侮辱し、罵り、悪意を持って意地悪をする「敵」の事です。では反対に「隣人」とは誰のことでしょうか。この質問を、直接主イエスに尋ねた人物がいます。それに対して主イエスが答えられたのが有名な「良きサマリア人」のたとえ話です。
 ある人が強盗に襲われて道端に倒れていた時に、ユダヤ教の祭司や宗教的指導者たちは見て見ぬふりをして通り過ぎていきました。しかしそこに通りがかった、当時ユダヤ人たちからは忌み嫌われていたサマリア人が、この倒れている人物に駆け寄って介抱し、宿の世話までして助けてくれたというお話です。
 最初の律法学者の質問は「わたしの隣人とは誰か」という問い掛けでしたが、それに対して主イエスは、「この人々の中で、誰が倒れている人の隣人になったと思うか」とお尋ねになりました。そして律法学者が「その人を助けた人です。」と答えると「行って、あなたも同じようにしなさい。」と命じられました。
 主イエスは、人を選り分けて、自分が愛せそうな人だけを隣人としようとする彼の態度に対して、愛とはそのように条件を付けて選り好みすることではなく、自分からが行って、その人の隣人になる事だとお答えになられたのです。つまり私たちの隣人とは、教会の兄弟姉妹や家族、友人には留まらず、私たちに敵対する者もまた、私たちが隣人として愛することを神は望んでおられるのです。

Ⅲ.神の完全な愛に生きる
 そのような分け隔てのない愛は、天の父である神が持っておられる愛の性質であるということを、主イエスは45節で太陽や雨にたとえておられます。雨や太陽の光が人をえり好みしないように、聖書の愛もまた相手のことを好きか嫌いかという「感情」に左右されません。「愛」とは、私たちの感情を超えた「意志」のことなのです。感情において愛することの出来ない相手を、意志において隣人として受け入れ、相手の憎しみに憎しみを返さず、相手のために祈ること、それが38節以降の教えの中で示されるキリスト者の隣人愛です。
 そして今朝の「敵」という言葉を、「私を苦しめている敵」ではなくて、神に逆らい、敵対している私自身の姿として読むなら、今日のこの「実現不可能な、あり得ない愛」によって私たち自身が神から愛されているということに気が付きます。山上の説教で主イエスは、まず最初に隣人愛についてお語りになりました。それは私たちが救われるための条件としてではなく、神との愛の関係を回復された私たちを、隣人同士で愛し合う事へと招く福音として語られているのです。神に敵対していたこの私を、あり得ないよう愛で愛して下さり、罪と死から救って下さったことを知る時に、私たちは初めて「愛されたから愛する」「親切にされたから親切にする」というこの世の原理を超えて、天の父に似たものとして敵を愛する者へと変えられていくのです。

Ⅳ.完全でありなさい
 最後に主イエスは「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」という言葉をお語りになりました。ここで言われている完全とは、律法の掟を一点も欠かすことなく完璧に守るという事ではなく、憐れみ深さ、隣人を愛することにおいて表される愛の完全さのことです。私たちがキリストを信じてキリスト者になるということは、この完全な者となる道へと、この地上の生涯において一歩を踏み出すということなのです。ご自分の敵であった私たちを心から愛し、その独り子の命をさえ惜しまずに与えて下さった神の愛にこそ、私たちの理解を遥かに超えた完全な愛の姿が示されています。私たちはその父なる神の愛を注がれて、今この地上の生涯においても、敵を愛し、敵のために祈る完全な愛へ向けて、日々少しずつ変えられていくのです。
 私たちはこれから先も、「人を愛する」という事の困難さに恐れを抱き、躓くことがあるでしょう。しかしそれでも私たちは、いつの日か完全な愛をもって神と人を愛することが出来る日が来るという希望を持って、何度傷ついても諦めることなく愛することへ立ち上がらせていただくことが出来るのです。

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