1節で主イエスは「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」と述べておられます。「律法学者やファリサイ派の人々に勝る義」の具体的な内容として5章で取り上げられていたのが隣人愛の問題でした。そして続く6章で取り上げられているのは「施し、祈り、断食」という具体的な礼拝生活の問題です。これらを律法に則って忠実に守っているということがユダヤ人の宗教的な敬虔さを表すことでもありました。
現代の教会で言うならば、日曜日の礼拝を忠実に守って、献金や奉仕も熱心にしている人が「真面目で立派なクリスチャンである」と評価されるというのに似ています。主イエスはここで、そういう宗教的な敬虔さを否定しておられるのではありません。ここで主イエスは、その善い行いの奥にある内実を問うておられると言っても良いでしょう。そこで善い行いを行う際の一つの原則が「見てもらおうとして、人の前で善行をしない」ことです。そして「隠れたところにおられる神に見ていただく」ことです。
そこでまず最初に取り上げられているのは「施し」についてです。ユダヤ人にとって「施し」は単なる人道的な理由からだけでなく、宗教的な義務として行わなければならない行為でありました。2節の「偽善者」と訳されている言葉は「俳優(役者)」を意味する言葉です。「偽善者」とはまさに、人に見てもらうために「良い自分」を演じている俳優のような者です。そこで主イエスは、人に見てもらうために自らの施し(善い行い)をことさらに周囲に吹聴しようとする態度を戒めておられる訳です。
しかしそのように人から認められたいと願う事は、本当に悪いことなのでしょうか。人は誰しも多かれ少なかれ自己顕示欲や承認欲求を持っています。そして人から認められたいと願う事が、私たちに向上心を与え、励ましてくれることがありますから、その事を一概にすべて悪であると断じることは出来ないのではないかと思います。しかしその一方で、そのような「人から誉められたい」「認められたい」という思いが大きくなりすぎると、今度はその承認欲求が私たちの行動を支配するようになります。そしてこの差は恐らく、私たちが自分自身でも気が付かないほど紙一重の差なのだと思います。膨れ上がった承認欲求は、良くも悪くも、現代に生きる私たちを動かす行動原理となってその考え方や行動を支配しているのです。
そこで主イエスは、そのように人に見てもらって評価してもらうために施しをしてはならないと述べておられます。それはつまり人からの評価に自分の言葉や行動を支配されてはならないということです。そして続けて「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」と教えておられます。つまり他人からの評価だけでなく、自己評価の支配からも自由になるということです。主イエスは、その「あなたの隠れた行いを、隠れたところにおられる天の父に見ていただきなさい」そして「人からの報いではなく、その天の父からの報いを求めなさい」と述べておられるのです。
主イエスは、「心の貧しい人々」が幸いであると宣言して下さいました。「心の貧しい人々」とは、自分の中に、神に対して誇ることが出来るものを何も持たない人のことです。神から評価していただけるような、どんな善いものも持たないのが「心の貧しい者」です。そしてそのような貧しい者に主イエスは「天の国はあなたがたのものだ」と言って下さるのです。
私たちは、他人や自分に対しては自分の姿を偽ることが出来たとしても、神の前にはそうではありません。神の前に自分を取り繕って演技しようとしても、それは全く無駄な努力であり、神の前には私たちの偽善など何の力も持ちません。そして神は私たちの、人の目にも自分の目にも見えない隠れたところをすべてをご存じの上で、私たちを、天の国にあずかる幸いな者として選んで下さいました。神はそのように、私たち一人一人を大切なかけがえのない者としてご覧になり、評価してくださるのです。
しかも神はその評価を実際に、ご自分の独り子を十字架の死に渡してくださるということによって明らかにしてくださいました。そしてキリストの十字架の死と復活によって、私たちを神の子として新しく生まれ変わらせて下さいました。そしてそれこそが、私たちに与えられている神からの豊かな報いです。罪人が神の子とされる、これ以上の報いはありません。私たちが永遠のいのちを得るためにはこれだけで充分なのです。たとえ周りの人が自分のことを誰も認めてくれないとしても、自分で自分を認めることさえ出来ないとしても、しかし目には見えないけれども確かに生きておられ、私たちの隠れたところもすべて見ていてくださる神の御前に生きる時に、私たちは人の評価からも、自分の評価からも解放されて、本当に自由な一人の人間として生きることが出来るのです。
信仰者とは、この地上において目に見えない神のみ前にたち、神と共に生きる者のことです。人は私たちを目に見える部分で評価しますし、私たちもまた、他者を目に見えるところでしか評価する事は出来ません。しかし私たちは隠れたところを見ておられる神を、いつも信仰生活の中心に置いて、私たちの隠れたところをすべてこの神に明け渡して、神のみ前に立ち、神のみ前に生きることができるのす。しかもその神の愛と恵みに感謝して私たちがこの地上において行う、どんな隠れた、取るに足らない小さな奉仕や善い業でさえも、神はそれをご覧になって報いてくださると約束して下さるのです。そしてそこでこそ私たちは本当の自由と自分の価値を見出すことが出来るのです。