今日の箇所で主イエスは、「あなたがたキリスト者の祈りは、偽善者の祈りや異邦人の祈りのようであってはならい」と述べておられます。
それでは「偽善者の祈り」とはどのようなものでしょうか。5節では、自分の敬虔さを示すために祈る人々のことを、主イエスは「偽善者」と呼んでいます。つまり神ではなく、周りの人の目を意識して捧げられる祈りのことです。
そして7節でもう一つの悪い祈りの例として挙げられている異邦人の祈りには、例えば魔術的な呪文を何度も繰り返すという祈りがありました。また自分が知っている様々な神様の名前を順番に挙げて、それらに呼び掛けるという祈り方もあったそうです。そのように異邦人の祈りは、言葉数を多くすることで、神様に自分の願いを何としてでも叶えてもらおうとする祈りです。それは一見、敬虔に見えるかも知れませんけれども、しかしその祈りは自分が主体となっていて、神様を願いを叶える道具のように従えようとする祈りです。
ですから、ここで悪い祈りの例として挙げておられる「偽善者の祈り」と「異邦人の祈り」は、どちらも祈られる神様ではなくて、祈っている自分が中心となっている祈りであるという事が出来ます。主イエスは、キリストの弟子である者の祈りは、そのような自分中心の祈りや自己満足の祈りであってはならないと教えておられるのです。
では、そのような偽善者の祈りでも、異邦人の祈りでもない、キリストの弟子の祈りとはどのようなものでしょうか。真の信仰者の祈りは、偽善者の祈りとは正反対に、奥まった場所にある人から見えない部屋で、隠れて祈られる祈りであると主イエスは述べておられます。もちろんそれは、単に物理的にそういう一人になれる部屋に籠りなさいということでありません。日常の様々な出来事から自分を切り離して、ただ神だけを見上げ、周囲の目からも、自分自身の自意識からも自由になって祈るのがキリストの弟子の態度なのです。
また私達は、異邦人の祈りのように、私たちの祈りによって神様を一生懸命に揺さぶって、注意を引いて、そして願いを叶えてもらおうとする必要はありません。なぜなら私たちの神は、私たちがそれを祈る前から、必要なものをすべて御存じの御方だからです。神様は、私たちが自分に必要なものを必死に訴えなければそれを与えてくれないのでも、自分の苦しみや悩みを詳しく説明しなければ分かってくれないのでもありません。また、私たちが必死に祈る姿を見て、やっと重い腰を挙げる御方でもありません。
事実、私たちを罪と死から救うために来られた御子イエス・キリストは、私たちが来てくださいと願ったから、この地上に来られたのではありません。お願いしたから十字架についてくださったのでもありません。私たちがそれを願う前から、自分が罪の贖いを必要とする罪人であると知る前から、神様は私たちの救いのためには御子イエス・キリストによる救いの業を始めていてくださっていたのです。
しかし私たちが祈っても祈らなくても、結果は同じなのであれば、私たちは何も毎日祈ったり、自分の願いや思いを神様に知って頂く必要はないのではないでしょうか。確かに親は、子どもが自分から何かを求めなくても、何か引き換えになるようなものを差し出さなくても、生きるために必要なものを無償で与えます。しかしだからと言って、子どもが親に感謝せず、信頼もせず、自分に対して何も求めず、心の内も打ち明けないとしたら、親はそれを寂しく思うのではないでしょうか。反対に小さな子どもが、一日にあった出来事を一生懸命に話してくれるときに、それがどんな些細な出来事であったとしても、親はその子どもの話に喜んで耳を傾けようとします。同じように私たちの天も、私たちがこの御方を信頼して、日々の些細な喜びや悲しみを語り掛け、自分の心の中にある思いや願いを率直に打ち明けるなら、喜んで私たちの言葉に耳を傾けてくださるのです。
私たちの天の父なる神は、私たちの喜びや感謝の祈りはもちろんのこと、私たちの嘆きや怒りの祈りに対しても、それを蔑んだり、責めたりすることはなさいません。天の父は、その私たちの祈りの言葉を憐みと慈しみの心をもって耳を傾けてくださるのです。祈りとは、その憐れみ深い神との間に交わされる親と子の楽しく暖かい語らいの時です。そして私たちがこのような近さで、神様を「天の父」と呼んで親しく祈ることが出来るのは、まことの神の御子であるイエス・キリストが、私たちをこの天の父なる神に至る道を示してくださったからです。御子を通して祈る時に、私たちの祈りは初めて、天の父に届く祈りとなるのです。
道を歩いて散歩をしていても、電車に乗っていても、家事をしていても、仕事中であっても・・・。私たちはいつでも隠れたところで神に出会い、この御方に心を開いて、「天のお父様」と祈ることが出来るのです。祈りはそのようにいつでも、どこでも神にお会いすることが出来る、本当に素晴らしい恵みであり、楽しい時間です。私たち一人一人が、キリストに結ばれた者に与えられているこの大きな恵みを、日々においてもっともっと豊かに味わい、神との親しい会話を楽しむ「祈りの人」とならせていただくことが出来るように、私たちはもっと大胆に神のみ前に近づいて、心を合わせて天の父なる神様に私たちの思いと感謝と願いを祈ろうではありませんか。