2023年08月27日 朝の礼拝「勝利の神」

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2023年08月27日 朝の礼拝「勝利の神」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
出エジプト記 6章28節~7章13節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:28 主がエジプトの国でモーセに語られたとき、
6:29 主はモーセに仰せになった。「わたしは主である。わたしがあなたに語ることをすべて、エジプトの王ファラオに語りなさい。」
6:30 しかし、モーセは主に言った。「御覧のとおり、わたしは唇に割礼のない者です。どうしてファラオがわたしの言うことを聞き入れましょうか。」
7:1 主はモーセに言われた。「見よ、わたしは、あなたをファラオに対しては神の代わりとし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。
7:2 わたしが命じるすべてのことをあなたが語れば、あなたの兄アロンが、イスラエルの人々を国から去らせるよう、ファラオに語るであろう。
7:3 しかし、わたしはファラオの心をかたくなにするので、わたしがエジプトの国でしるしや奇跡を繰り返したとしても、
7:4 ファラオはあなたたちの言うことを聞かない。わたしはエジプトに手を下し、大いなる審判によって、わたしの部隊、わたしの民イスラエルの人々をエジプトの国から導き出す。
7:5 わたしがエジプトに対して手を伸ばし、イスラエルの人々をその中から導き出すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」
7:6 モーセとアロンは、主が命じられたとおりに行った。
7:7 ファラオに語ったとき、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。
7:8 主はモーセとアロンに言われた。
7:9 「もし、ファラオがあなたたちに向かって、『奇跡を行ってみよ』と求めるならば、あなたはアロンに、『杖を取って、ファラオの前に投げよ』と言うと、杖は蛇になる。」
7:10 モーセとアロンはファラオのもとに行き、主の命じられたとおりに行った。アロンが自分の杖をファラオとその家臣たちの前に投げると、杖は蛇になった。
7:11 そこでファラオも賢者や呪術師を召し出した。エジプトの魔術師もまた、秘術を用いて同じことを行った。
7:12 それぞれ自分の杖を投げると、蛇になったが、アロンの杖は彼らの杖をのみ込んだ。
7:13 しかし、ファラオの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞かなかった。主が仰せになったとおりである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
出エジプト記 6章28節~7章13節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ.ファラオとモーセの対決は、神と現人神の対決
 八月は、先に起こった戦争と、日本の敗戦を覚える月でした。一般に「太平洋戦争」と呼ばれている戦争では、天皇を「現人神」とする国家神道の下に国民が統合されて、あの愚かで悲惨な戦争へと突入していきました。 
 今日の箇所でモーセが対決しようとしているエジプトのファラオもまた、単なる王ではなく、神の化身であり現人神と呼ぶべき存在でした。そのモーセに対して神は、モーセの代わりに言葉を語る者として兄のアロンを立てられて、その二人の役割を「神」と「預言者」に例えています。ですからモーセは「神の代理者」として立てられたのであり、ファラオとモーセの対決は、エジプトの現人神と聖書の神との対決でもあったのです。
 この後モーセが様々な奇跡を行いエジプトを災いが襲うたびに、ファラオは民を去らせることに同意しますが、しかしすぐにまた心を頑なにするという事が繰り返されています。しかもそれは神御自身がファラオの心を頑なにされるからなのだと言われています。しかし「イスラエルの民を去らせよ」という神の言葉を受け入れることを拒んだのは、あくまでファラオ自身の意志であって、神様が無理やりそうさせたのではありません。神はそのファラオの心の頑なさをも用いられて、ファラオではなく御自分こそが主であるということをエジプトの人々に知らしめようとしているのです。

Ⅱ.私たちの世界の現実と目に見えない神の救いの御業
 そこでのファラオは、神々の化身でもありませんし、ましてや現人神ではありません。巨大なエジプト王国を支配して、人々から現人神として崇められているファラオもまた、神の救いの御業の大きな流れの中では、ひとつの小さな駒にしか過ぎません。私たちの世界は、一見すると一部の政治家やエリートたちが牛耳っているように映るかも知れません。しかしもっと広い大きな目で私たち人間の歴史を見渡した時に、人の支配はやがていつか潰え去る時が来るということを見ることが出来ます。そして神の救いの御業は今日まで連綿と続いていて、そしてこれからも続いていくということを知ることが出来るのです。
 私たちキリスト者は、目の前の出来事だけを見て一喜一憂するのではなく、もっと広く遠く神の御業を見つめて、自分たちや世界の国の行く末を見据えるための信仰の目を持つことが必要です。そしてもっと太くて深い根を持つ希望を人々に語ることがこの時代、私たちに与えられている役目なのではないでしょうか。

Ⅲ.太平洋戦争とキリスト者
 今から約80年前、私たちの国は太平洋戦争と呼ばれる、あの愚かな戦いへと足を踏み入れていきました。その際に大きな役割を果たしたのが、天皇を現人神として崇める天皇崇拝でした。そして、そのような国家権力に対して、当時のキリスト教会はそれにまったく抵抗することが出来ませんでした。当時の日本の多くの教会が、天皇を現人神とする国家権力に対して、神の言葉を真っすぐに語るという神の命令に従うことが出来ずに、権力の前に膝をかがめたのです。
 では、この当時のキリスト教会や、その指導者たちは、今の私たちよりも信仰が弱かったから、最後まで神に従う勇気を持てなかったのでしょうか。そうではないでしょう。私たちもまた、この日本と言う異教社会でキリスト者として生きるときに、聖書の神とそれ以外のもの、そのどちらに従うかという信仰の戦いを戦わなければなりません。そこで、生きるために、家族を養うために私たちもまた神の言葉ではなく、別のものを選び取って、この世の力の前に膝をかがめてしまうことがあるのではないでしょうか。そのように日々、信仰の戦いに直面する私たちもまた、今日のモーセに対する神の言葉に真剣に耳を傾けなければならないのではないでしょうか。
 本日の新約朗読では、エフェソの信徒への手紙の御言葉を読みました。そこには、私たちを自分の支配下に置いて、真の神から引き離そうとする、そういうこの世のあらゆる力や権威、この世の「現人神」に対する真の神の勝利が語られています。神はご自分の御子であるイエス・キリストを十字架の死から復活させ、天においてご自分の右の座に着かせることによって、この世とのあらゆる戦いにすでに勝利されたのです。今日の箇所で、魔術師たちが生み出した蛇を、神の杖がすべて飲みつくしてしまったように、御子イエス・キリストの十字架と復活によって、この世を支配する蛇は、その神のみ力によって既に飲み込まったのです。ですから、そのような世の力は、もう二度と私たちを捕えて飲み込んでしまうということありません。 たとえ九度、世の力に恐れをなして、その前に膝をかがめてしまったとしても、しかし私たちは主イエスにあってもう一度膝を伸ばして、顔を挙げて、立ち上がる事が出来るのです。そして最後には必ず、世の力に対する完全な勝利を得ることが出来るのです。

Ⅳ.遠くを見つめる信仰の目と、根の深い信仰を持つために、御言葉に聞き続けよう!
 私たち日本キリスト改革派教会は、先の戦争において「神の言葉を語る」という責任を果たすことが出来なかった反省と悔い改めに立って、そこからの再出発を目指して創立された教派です。戦争と言う人間の罪深い愚かな過ちの中から、神は世の終わりの日まで神の言葉を世に語り続ける神の教会の一枝として、私たち改革派教会を興してくださったのです。神の御業は、人間の目には不思議としか言いようのないものばかりです。しかし神様は、私たち人間の目では到底見通すことの出来ない、世の初めかから世の終わりまでを見つめておられ、そして最後には必ずご自分の民に勝利を与え、そのことを通して世界中の民に、ご自分こそが真の神、主である、その事をお示しになられるのです。 
 今、神の民とされている私たちもまた、目の前の目に見えるものだけに捕らわれるのではなく、より遠くを見つめる信仰の目と、より深く確かな根を持つ信仰を持つことが出来るように、日々悔い改め、御言葉に聞き続け、聖霊の助けを祈り求めようではありませんか。

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