Ⅰ:主の祈りを通して、神様が望んでおられる関係を知る
主の祈りは、子どもたちでも暗記出来るくらい分かりやすく、しかも一分もあれば祈ることが出来る短い祈りです。しかしその短い祈りの中に、私たちの信仰生活の足元を支えてくれるような祈りの模範が示されています。
祈りには、その人と神との関係が如実に現れます。神様との間にどのような関係を築き、どのような交わりを持って生きているかということは、その人の祈りの言葉や態度に現れるのです。そうであれば、主イエスが弟子たちに「祈る時にはこう祈りなさい」と言って主の祈りを教えられたのは、単に祈りの言葉を手ほどきしておられるのではありません。主の祈りを通して、神様が私たちとの間にどのような関係を築くことを求めておられるのかを教えておられるのです。
Ⅱ:「天におられる私たちの父」に祈る
そこで、その主の祈りの出だしは、『天におられる父よ』という呼び掛けから始まっています。私たちの目線はいつも、地上の問題や日々の様々な思い煩いに向けられています。そこでは私たちの祈りもまた、近視眼的なものになりがちです。しかし「天におられる父」に祈り始めるときに、私たちは自分自身や周りのものを「天」から見つめる目線を与えられるのです。そこで私たちは自分の悩みや必要のためだけでなく、もっと大きな広い視点でこの世界を見渡すことが出来、自分のためだけでなく、他の人の必要のために、世界全体のために祈ることが出来るのです。
そして第二に、主イエスはこの天の神に向けて「わたしたちの父」と祈るように教えています。ルカ福音書ではこの最初の呼び掛けは「父よ(アッバ)」というよりシンプルな呼び掛けになっています。当時のユダヤ人たちが日常語として使っていたアラム語で幼い子供が父親に向かって呼び掛ける「お父ちゃん」「パパ」という呼び掛けの言葉が、この「アッバ」という言葉です。ルカ福音書の主の祈りは、そのような子どもが親に対して信頼と愛情を持って呼び掛ける「アッバ(お父さん)」という言葉から始まっています。
それに対して、今日のマタイ福音書は「天におられる私たちの父よ」というやや固い言い方で祈り始めています。それでは、マタイの主の祈りは、ルカの様な信頼や愛情を天の神に対して抱いていないのかと言えば、そんなことはありません。ここでマタイが「私たちの天の父」と呼び掛けるように教えておられる方は、子どもが生きていくのに必要なものを、子どもが自分から求めなくても、前もってすべて用意して、それを惜しみなく与えてくださる、愛と慈しみに満ちた父親です。それは正に、ルカが「アッバ(お父さん)」という呼び掛けで言い表している、我が子を愛し、我が子の言葉に優しく耳を傾ける父親像そのものです。そしてそのような、天におられる神との間に「私たちの父」と呼び掛けることが出来る、そういう関係を結ぶということ、それが神様が私たちとの間に願っておられることなのです。
主イエスお一人が、天の神を「アッバ(お父さん)」という呼び掛けをもって祈っておられました。そして主イエスは、その天の神との親しい関係を、自分一人で独占しようとはなさいませんでした。ご自分が選ばれて弟子とされた者を、その神との愛の関係へと招き入れてくださって、あなたがたもこの天の神を「父」「お父さん」と呼びなさいと教えてくださったのです。この主イエスの招きにあって、私たちは祈りにおいて神様を「天のお父様」と親しく呼ぶことが出来るのです。
Ⅲ:主イエスは主の祈りに招いておられる
そしてもうひとつ、主イエスはここで、この主の祈りを「わたしたち」という複数形の言葉で祈るように教えておられます。この「わたしたち」という言葉は、同じキリストの弟子とされた信仰者、兄弟姉妹のことです。ですから古代の教会では、聖餐式と同じように主の祈りも洗礼を受けた者だけが祈ることが許されていた時代がありました。しかし今の私たちの教会は、礼拝に来られた未信者の方も一緒にこの主の祈りを祈るようにお願いしています。それは、今はまだこの神を信じていない方も、やがてこの「わたしたち」の中に入れられる日が来ることを願っているからです。この「わたしたち」という言葉の中にどれだけの人を、どこまでの人を思い浮かべることが出来るか、その事によって私たちの祈りの大きく変わってきます。
この「わたしたち」という言葉を自分の家族や友人、あるいは自分の教会の兄弟姉妹だけに限定して祈るなら、その祈りは小さく狭い祈りになるでしょう。しかしこの「わたしたち」という言葉の中に、世界中の兄弟姉妹を思い浮かべ、また教会から離れている者たちや、まだ神を信じていない者たちをも思い浮かべて主の祈りを祈るなら、その私たちの祈りは、本当に大きな広がりを持つことが出来るのです。
Ⅳ:祈れない時には主の祈りを祈ろう
前回の説教では『祈りは楽し』という説教題をつけさせていただきました。確かに天におられる父なる神に私たちの心の内をすべて打ち明けることが出来る祈りの交わりは、私たち信仰者にとって「楽しい時間」です。けれども現実には、私たちは時に「祈る」という事が楽しく感じられないということがあるかも知れません。忙しさの中で、自分の中に大きな罪を抱えていて、悲しみや苦しみが余りにも深く大きすぎて・・・。私たちには、祈る気力が湧かず、祈るべき言葉も出てこないということがあるかも知れません。しかし、そんな時にこそ私たちは、「祈る時にはこう祈りなさい」と言って主イエスが教えてくださった、この主の祈りの言葉を祈ればよいのです。主の祈りの言葉を一つ一つ味わいながら、主イエスの名によって心を込めて祈る時に、主イエスがもう一度、私たちを天の父なる神との親子の親しい交わりの中へと招いてくださるのです。この主の祈りを学び、それを模範とし、主の祈りに生きることで、私たちの個人の祈りもや信仰生活は本当に豊かなものとされていくのです。