Ⅰ:まず神に焦点を合わせて「神中心」の祈りを祈る
主の祈りは、頌栄の言葉を除けば全部で六つの祈りで構成されています。前半の三つは「神」についての祈り、後半の三つが私たちの地上の生活ついての祈りになっています。祈りにおいまず神に焦点を合わせて祈るということ、これが私たち信仰者の祈りのひとつの原則です。まず神に心を向けて祈ることで、私たちの祈りは単なる自己満足や自己実現の祈りではなく「神中心の祈り」として整えられていきます。
ウェストミンスター小教理問答の最初の質問「人の主な目的は何であるか」という問いの答えは、「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである」です。それは一言で言えば「神を神として位置づける」ということです。私たちの祈りもまず神を神として崇めるということから始まるのです。
Ⅱ:「御名があがめられますように」の意味 「神が聖としてくださるように」
「崇められますように」と訳されているギリシャ語の本来の意味は、「神聖なものとする」「偉大なものとする」という意味です。
ここ数年の間に出版された新しい日本語訳聖書ではこの箇所をいずれも「御名が聖とされますように(聖なるものとされますように)」と翻訳しています。この言葉を「聖とする(聖なるものとする)」という意味で理解するときに、そもそも私たちが神の御名を聖めて、聖なるものにすることは出来ないということが分かります。それが出来るのは神御自身しかおられません。「御名が聖とされますように」という祈りは、神ご自身が、神の御名を聖なるものとしてくださいという祈りです。
それでは、神様がそのように御自分の御名を聖なるものとされるとは、具体的にどういうことでしょうか。エゼキエル書36章で神様は「バビロン捕囚」によって散らされた国々で、イスラエルの民が「わが聖なる名を汚した」と述べておられます。しかし続けて「わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。」と述べておられます。そしてご自分の御名を聖とするために「わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる」と約束されるのです。神はイスラエルの民の背きの罪を赦し、彼らを捕囚の苦しみから救うことによって、イスラエルの民が汚した御名を、聖なるものとされると約束されているのです。
Ⅲ:主イエスの十字架によって御名を聖とされた神
ヨハネによる福音書12章で主イエスは世の人の罪を贖うために十字架に掛けられる前に、ゲッセマネの園で「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」と祈られました。その主イエスの祈りに対して神は「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」とお答えになりました。
先程のエゼキエル書において、神に背き、御名を汚したイスラエルの民の背きの罪を赦すことで、神は再びご自分の御名を聖なるものとされると約束されました。その神は実際に、キリストの十字架によって私たちの背きの罪を赦し、私たちが汚してしまった神の御名をもう一度聖なるものとしてくださったのです。
「御名を崇めさせたまえ」という主の祈りの言葉は、私たちが善い立派な行いをして神の御名を聖なるものとすることが出来るようにと願うのではなく、神御自身が、私たちの罪を主イエスの十字架によって赦し、私たちを罪と死から救うことでご自分の御名を再び聖なるものとしてくださったことに感謝して、その救いが完成するように願い祈る祈りなのです。
そして私たちはこの祈りの持つもう一つの意味にも目を向けたいと思うのです。たとえば、私たち自身は優れた芸術作品を作り出すことが出来ないとしても、優れた作品を見て、その作品に感動し、その作者を称賛することは出来るでしょう。私たちはたとえ自分の力で神の御名を聖なるものとすることは出来なくとも、聖書の御言葉を通して神を知り、神の御名を褒め称えることは出来るのです。そして主の祈りの第一の祈りは、神御自身が聖としてくださることを求めるのと同時に、その事を私たちにさせてくださいという祈りなのです。
もちろん、罪に汚れている私たちの言葉や行いは、神様の評判を高めて、人々が神様をあがめるようにすることは出来ないし、むしろ却って御名を汚してしまう事の方が遥かに多いでしょう。しかしそれでも私たちは、主の祈りを祈る時に神に願うのです。私たちの言葉や行い、その生活のすべてを通して神の御名が崇められ、聖とされますように。そしてそのように神が聖であることを私たち自身が人々に顕すことが出来る者へと、この私を変えてくださいと。
主の祈りの第一の祈りは、神の御名が神御自身によって聖なるものとされることを願う祈りです。そして、その神の御名を聖なるものとするためにこの地上に来られた主イエスの十字架の救いが実現するように願う「神中心の祈り」です。と同時にこの祈りは、私たち自身が神の栄光を顕す者へと変えられていくことを求める祈り、聖化を求める祈りでもあるのです。
Ⅳ:礼拝によって御名を聖とする歩みへ送り出される
主の日の礼拝を通して、私たちは神を崇め、神の栄光を表し、神を喜んで、神の御名を聖なる御名として讃美します。そしてそこから始まる一週間の歩みが、神の栄光をあらわして、神の御名が聖とされる歩みとなるように祈り、それぞれの生活へと送り出されていくのです。今はまだ、私たちの歩みが神の栄光を表すのにほど遠い歩みであるとしても、落ち込む必要はありません。「御名が崇められますように」と私たちが祈る時に、神はその祈りに「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう」と答えてくださり、その私たちの弱さをを通して、ご自分が聖であることを世に表してくださるのですから。