2023年09月17日 朝の礼拝「神の国が来るように」

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2023年09月17日 朝の礼拝「神の国が来るように」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 6章9節~13節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。
6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。
6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
6:12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 6章9節~13節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:究極的な神の国と漸進的な神の国
 主の祈りの二番目の祈りは「御国が来ますように」という祈りです。御国とはつまるところ「神の国(天の国)」のことを指しています。「国」という言葉には「王国」の他にも「王による支配・統治」「王権」という意味があるように、神の国とは「神のご支配」のことです。神の栄光が表されて、その支配と統治が及んでいるところはすべて「神の国」なのです。
 そして、その神の国の究極的な完成がもたらされるのは、世の終わりの『終末の時』です。「御国が来ますように」という主の祈りの言葉は、この信仰者の最終的な目標であり、神の究極的なご支配の完成である世の終わりを見つめながら祈る「終末的な祈り」なのです。
 しかしこの祈りは、そのような終末に完成する神の国の実現だけを願っているのではありません。私たちはこの祈りを通して、信仰のゴールである終りの日の神の国の完成を熱心に願い求めつつ、一方で今、この地上の人生においても、神の御支配と統治としての神の国が進展し、拡大するようにと祈り求めるのです。

Ⅱ:私たちはなぜ現実の中に神の国を見出すことが出来ないのか
 しかし、私たちが今生きているこの世界の現実を目にするときに、一体この世界のどこに、神の支配、神の王国が実現していると言えるでしょうか。私たちの生きている辛い現実と、聖書が語る「神の国」というイメージにはギャップがあります。そしてそこで祈られる「御国が来ますように」という主の祈りの言葉もまた、どこか虚しい、絵空事の様な祈りに感じるのではないでしょうか。

 しかし聖書が語る「神の国」は、空想の理想郷(ユートピア)ではありません。「神の国」は、世の終わりに完成する神の支配としてだけでなく、私たちが手を伸ばせば届く、触れることが出来るところに今もうすでにある、今私たちが生きている現実の中に存在する「神の支配」であると主イエスは言われるのです。
 もしそうであるならば、私たちはなぜその神の支配を、現実の生活の中で実感することが出来ないのでしょうか。それは、私たちが思い描いている「神の支配」と、神が主イエスにあってもたらされる神の支配とが、根本的に違っているからではないでしょうか。
 
Ⅲ:キリストによって実現した愛の支配
 では、聖書が語る神の国とは何でしょうか。主イエスが人々に神の国についての宣教を始められた時の最初の言葉は「悔い改めよ、天の国は近づいた」という言葉でした。そこで人々に告げ知らされた神の国は、私たちが自分で努力して「行くところ」ではなくて、『私たちの方へ“近づいて来る』のです。それはつまりイエス・キリスト御自身のことです。「天の国が近づいた」という知らせは、神の御子であり真の救い主として神の支配を完成させるであるイエス・キリストという御方が地上に来られた」という知らせです。
 主イエスは御自分を指して「神の国が近づいた」と言われたのです。そしてご自分を指して「神の国はあなたがたの間にある」と述べておられるのです。この世を悪霊の支配から解き放って、神の国、神の支配の下に置くために、神の御子は人となってこの地上に来られたのであって、その御子が来られたことによって神の支配は、もうすでにこの世界に及んでいるのです。
 そして、キリストの十字架の死と復活によって私たちを罪の支配から解き放ってくださり、神のご支配へと招き入れてくださいました。「死」は正に、この地上に生きる者が誰一人として逃れることが出来ない、この世における最終的かつ究極的な敵です。しかしキリストの復活によって、私たちはその地上の最後の敵である死の支配からも解放され、死はもはや私たちから何も奪うことは出来なくなりました。
 そのようにして、世の罪と死の支配から解放された私たちは、今すでに神のご支配の下でこの地上の生涯を生きているのです。それは、私たちの願い事が何でも叶うユートピアに生きているという事ではありません。神の支配とは、あのキリストの十字架と復活によって示された、神の愛による支配のことです。神に背を向けていた私たちが、キリストによってその罪と死から解放されて、神の愛に生かされる者になったということ、それこそが、今現実に私たちのただ中に実現した「神の支配(神の国)」なのです。
 神の愛のご支配による神の国は、この主イエス・キリストにあって、既に私たちが手を伸ばせば触れることが出来るものとして、私たち人生のただ中にあります。私たちは現実に様々な問題をかかえ、そこで悩みや苦しみ、そして死の力に直面しながら、しかしそこでなお私たちは主イエスと出会い、その愛に生かされて歩むことができるのです。
 更に地上における神の国は、地上の神の国の民である教会を通して進展し、実現していくのです。

Ⅳ:地上の神の国としての教会
 キリスト者は、主イエスを信じて救われて天国行きの切符を手に入れたら、あとはそれを無くさないように後生大事に抱えて生きていくのではありません。
 私たちは、この悩み多い世界に神の御支配が実現し、その完成へ向けて進展するように「み国を来たらせたまえ」と祈り、そして私たちの人生を「自分の王国」を建てるためではなく、神の王国を建てるために用いられながら生きるのです。そしてそれが、私たちがこの地上の生涯を、キリスト者として生きる本来の意味なのです。

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