2023年10月01日 朝の礼拝「神のみ心」

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2023年10月01日 朝の礼拝「神のみ心」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 6章9節~13節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。
6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。
6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
6:12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 6章9節~13節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:自己中心的な私たちと神のみ心
 主の祈りの前半は、神についての祈りです。「神の御名」から始まって、「御国」「御心」の実現を願う祈りへと続いていきます。この第三の祈りが、その前の二つの祈りの結論、あるいはその祈りを実現するための具体的な手段であるとも言えるでしょう。では例えば世界で起きている戦争や飢餓も「神の御心」なのでしょうか。私たち一人一人の人生に起こる突然の病気や事故、愛する者の死・・・。それらも「神の御心」なのでしょうか。もしそうなら私たちの人生はまるで、「神の御心」という得体の知れない力(運命)に操られ翻弄されているようにも思えます。しかし、私たちがそんな風に感じてしまうのは、恐らく私たちの頭の中に『神の御心は、常に喜ばしい、従いやすいものであるはずだ』という先入観があるからです。しかし神の御心いつも私たちにとって従いやすいものであるとは限りません。むしろ、絶対に選びたくない道が御心として示されることもあるのです。

Ⅱ:神の御心とは何か
 それでは主イエスが、主の祈りを通して願うように教えられた「御心」とは一体何でしょうか。旧約朗読でお読みしたエゼキエル書33章10-11節には、その神の御心の一端が私たちに示されています。そこでははっきりと、神の御心は悪人が滅びることではなく、悪の道から立ち帰り生きる事であるということが示されています。そして新約聖書でも、ヨハネによる福音書6章38節から40節にはっきりと、父なる神の御心は「子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得ることである」と語られています。
 私たちは、いつも私の利益や自分の成功、自分の幸福だけを求めています。自分中心の生き方を捨てることが出来ず、神の御心が示されてもそれを都合よく捻じ曲げて、自分の思いを正当化しようとする。そういう愚かで自分勝手な生き方しか出来ないのが、私たち罪人です。しかし驚くべきことに、主イエスを通して示された神の御心とは、そのような自分勝手で愚かな私たちが悪の道から立ち帰って、永遠の命を生きることなのです。そのことを望まれて神は、私たちのためにご自分の独り子をこの地上へと遣わしてくださったのです。この驚くような愛こそが、神の私たちに対する御心なのです。

Ⅲ:主イエスが共にいることが御心の道を歩むこと
 世の中で起きている戦争や飢餓という現実は神が創り出したのではありませんし、私たちの人生に起こる悲劇も、神が私たちの人生をもてあそんでおられるのではありません。それは私たち人間の罪が創り出した現実であって、神に責任転嫁することは出来ません。神から離れ、神に背を向けている自らの罪の故に、私たちは苦しまなければならないのです。しかし、御子の十字架での死という、この世における最も暗い現実において、しかし神は罪人を救うというご自分の御心を成し遂げられました。世の罪が神の御子に勝利したように見えたその十字架において神のご支配と勝利が実現したように、神は私たちの罪が生み出す暗い現実の中にあって、その人生の暗闇の中から罪人を死の道から救い出し、命の道へと至らせるという御心を行うことが出来るお方なのです。
 神の御心を求めるということは、右と左どちらを選ぶのかお伺いを立てることではありません。大切なのは、私がどの道を選ぶかという事よりも、誰とその道を歩んでいくかという事です。将来についての選択ではなくて、今この時を聖書の御言葉に従い、イエス・キリストと共に歩んでいるのかが、本当に大切な問いなのです。なぜなら主イエスと共に生きることが、神の御心を生きるということだからです。私たちはどのような職業を選び、どこに就職し、誰と結婚ようとも、そこに主イエスが共にいて下さるなら、それは命に至る道です。しかし反対にキリストが共にいて下さらないなら、それは最終的に滅びへと至る道なのです。

Ⅳ:いつの日か御心を知るために
 私たちの人生には、現実に様々な苦しみや悩みがあります。「できることなら、この杯を過ぎ去らせてくださらない」というゲッセマネの祈りを祈らずにおれない時があるでしょう。しかし私たちは、その祈りを一人で祈らなければならないのではありません。私たちには、神の御心がご自分にとっては耐えがたい十字架の死を意味することを知りながら、それでも赤みの御心が実現するように祈りなさいと弟子たちに教えてくださった、愛なる主が共にいてくださいます。この主イエス・キリストよって示された神の深い愛を知り、このお方に信頼し祈るときに、私たちは「私」のではなく、「神の御心」がなるようにと祈ることが出来るのです。
 その祈りは、すぐに私たちがその結果を見て「これは御心だった」「御心ではなかった」と判断することが出来るようなものではありません。ですから神様の御心を求める祈りには忍耐が必要です。しかし私たちには希望があります。私たちに対する神の愛に満ちた御心は、すでに御子イエス・キリストの十字架によって私たちに示されています。私たちはこの御子を通して愛なる父を信頼し「御心が行われますように」と祈ることが出来ます。そしていつの日か必ず、私たちはその祈りの結果をこの目で見ることが来ます。その時、確かに神の御心は私にとって最善のものであった、そのことを知り喜ぶことが出来るのです。

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