Ⅰ.日々の必要を満たしてくださる神に信頼する
主の祈りの前半で主イエスは、『まず神の栄光を求めて、神を喜ぶ』祈りを祈るように弟子たちに教えられました。そのことによって私たちは、自らの祈りを『人間中心(自分中心)の祈りから、『神中心』の祈りへと整えることが出来るのです。しかし、「神中心の祈りを祈る」ということは、決して私たちが祈りの中で“自分の願いを祈ってはならない”と言うことではありません。むしろ神を第一とする祈りの中でこそ私たちは、自分の願うものを正直に神に打ち明け、それが与えられるように願い求めることが出来るのです。
私たちは、精神的なものと現実的なものとをどこかで区別して、宗教というものは「精神的な救い」や「心の救い」を与えるものであると限定してしまう面があります。物質的な必要を願うことは、精神的な願いよりも劣っているのではありません。神のご支配は、日々の食事のような、現実的で具体的な事柄にまで及んでいて、ほんの些細な事柄でさえ神の恵みによって支えられているのです。ですから私たちは祈りを精神的なこと、心の中の問題だけに限定する必要はありません。私たちは生きるために必要なものや肉体が健やかである事を造り主なる神に祈り求めても良いのです。また「こんな些細なことで神様の手を煩わせるのは申し訳ない」と言って、小さな祈りを恥じる必要もありません。生活の基本的なこと、日常の最も小さなことに至るまで、それを与えてくださいと願い求めることが出来るのです。主イエスは弟子たちに、自分の知識や常識で差し引かずに、もっと大胆にあなたの願いを神に訴えて、それを与えてくださるように祈り求めなさいと教えられるのです。
Ⅱ:日々の糧を祈る先にあるもの
しかし主イエスは弟子たちに必要なものを大胆に願うようにと教える一方で、「一日に必要な糧を日ごとに求める」という制限も設けておられます。もちろん目先のことだけでなく、将来のことを見据えて計画的に生きることは神の願われることです。しかし、あまりにも先々のことを心配し過ぎて、不安や欲望を際限なく広げてしまうことは、却って私たちを神への信頼から遠ざけてしまうことになります。ですから先々の物まで心配するのではなく、今日必要なものを慎ましく求めること。そして今日神様から与えられた恵みに感謝して生きることが信仰者としての相応しいあり方として教えられているのです。
もう一つ、日ごとの糧を求める祈りは「私」だけではなく「私たちの糧」を求める祈りです。 私たちは「日ごとの糧を与えてください」と祈る時に、世の飢え乾く人々、貧しさを生きる人々を思い浮かべ、彼らの必要が満たされるように真剣に祈ることが大切です。神様との関係を正しく持つことで、初めて隣人との関係も正しく保つことが出来るようになるのす。
そのように私たちの視野が隣人に開かれる時に、今度は今与えられている恵みに対する感謝が、私たちの内に自然と沸き起こってくるでしょう。私たちは主の祈りを祈る時に、今日の食事、自分や家族の健康、仕事や趣味、その他生活のほんの些細なことに至るまでちりばめられている神のご配慮の一つ一つに感謝するのです。神は私たちに、修行僧のように生きることを求めておられるのではありません。神様への感謝をもって与えられた食事を味わい、仕事や趣味に打ち込み、神が与えてくださる恵みを喜び、楽しんで生きることによって、私たちは神を賛美し、栄光を現わすことが出来るのです。
Ⅲ:イエスこそ命のパン
最後に聖書全体を見渡すときに、この第四の祈りは、現実的は「日々の糧」以上のことをも含んでいるということを心にとめることが出来ます。人間を根本的に生かし、霊的な命を与えることが出来るのは、肉のパンではなく霊を養う命のパンである『神の御言葉』です。神の御言葉に聞き、それに従い生きること無しに、人は本当の命を生きることは出来ません。神の御子であるイエス・キリストこそが、神の口から出た、生ける神の言葉であり、人間の真の命を与えるために神がお与えになった命のパンです(ヨハネ6:51)。神は十字架において、私たち罪人のために御子の体をパンとしてお与えになり、その血潮を飲み物としてお与えになられました。聖餐式は神の計り知れない愛と恵みに行かされてある今を感謝し喜ぶ礼典です。聖餐の恵みを通して、今日、主イエスと共に生きる一日が与えられていることに感謝し、その命の御言葉を頂くことが出来るように祈るのです。天の父なる神は、その私たちの求めに応じて、御子による救いと命の食べ物を惜しむことなく私たちに与えてくださるのです。
Ⅳ.主の恵みを喜び楽しむ人生
そして聖餐式は、来るべき神の御国において私たちが与る事の出来る祝宴(祝いの席)の先取でもあります。来るべき救いの完成の日を迎えるのに充分な今日の命の糧を、私たちは日々求め続けるのです。礼拝を通して、また日々の祈りと御言葉の学びを通して、私たちは来るべき日を迎えるのに必要な霊の糧を与えられ、主にある人生を罪の虚しい快楽や楽しみによってではなく、本当の意味で喜び、楽しむことが出来るのです。