Ⅰ.エジプトに下された災い
出エジプト記は7章からモーセとファラオの本格的な対決が始まります。今朝は十の災いの出来事の前半四つを取り扱いたいと思います。
まず最初の災いは、アロンが杖を手に取ってナイル川の水を打つと、川の水が血に変わる「血の災い」です。しかしエジプトの魔術師たちも同じことを行うことが出来たため、ファラオの心は頑なになりました。
そこで二番目の災いとして下されたのがナイル川からおびただしい数の蛙が発生して、王宮の寝室や民家のかまどやこね鉢の中にまで入り込む「蛙の災い」です。ここでも魔術師たちは秘術を用いて同じことをしましたが発生した蛙を消すということは出来ませんでした。そこで堪り兼ねたファラオはモーセとアロンを呼び出して神に祈って欲しいと願い出ます。モーセはこのファラオの願いを受け入れてファラオとエジプトのために祈ります。ところが一息つくとファラオは再び心を頑なにして約束を破ります。そこでアロンが杖で土の塵を打つと、それがぶよとなってエジプト全土に広がって人と家畜を襲いました。しかも今回は魔術師たちには同じことが出来ませんでした。そこで魔術師たちはファラオに「これは神の指の働きです」と訴えて、これが人間の業ではないということを説明します。しかしそれでもファラオは彼らの言葉に耳を貸そうとはせず、神の業を心に留めようとはしませんでした。
ここで魔術師たちの行った奇跡は、表面上は神の業と同じに見えたかも知れません。しかし彼らは回復して癒すということは出来ませんでしたから、彼らの業は結果的にエジプトに災いを増し加えただけでした。それに対して神様は、ご自分が災いを下すことはもちろん、モーセの祈りに応えてそれを終わらせることもお出来になるということをお示しになりました。そのことによって、このイスラエルの神が全世界をご支配する全地の主であることをファラオとその民に明らかにされたのです。そのように神の業と人間の業はある時点までは見分けがつきにくい場合があります。しかし人間の業はどんなに優れた知恵や力に満ちていたとしても、どこかで行き詰まりを迎えます。仮にこの世の試練を乗り越えることが出来ても、神の裁きを乗り越えることは出来ないのです。
そしてぶよの災いに続く第四の災いとして、大量のあぶが発生して国を荒れ果てさせる災いが起こります。ここで注目したいのは、ここから神様はエジプトとイスラエルの民を明白に区別して、ご自分の民を災いから守り、エジプトにだけ災いが降るようにしておられるということです。聖書が語る救いの本質はこの、神様が信仰者を「わたしの民」と呼び、他の民とは区別されるということです。そのことが決定的になされたのが、最後の「過越」の出来事です。この第四の災いは、過越によって最終的に示される神様の贖いのみ業を予告していると言うこともできます。
Ⅱ.災いに隠されたしるし
さて、ここまで第一から第四の災いまでを駆け足で振り返ってきました。そこで描かれるファラオの頑なな姿は、何か苦しみの中にある時には熱心に神仏の助けを祈り求めますが、問題が解決すればすぐに神や信仰のことなど忘れて自分中心の生き方へと戻ってしまう、私たち人間の頑なな性質を表わしています。しかし現実に私たちの人生に起こる災いは、十どころではありません。一つの災いが終われば、また次が襲ってくるのが私たちの人生です。ですからただ災いを逃れることだけを願う信仰は、やがて疲れ果て、神への疑いや迷いへと傾いていくでしょう。
しかしエジプトに下された災いは、ただ単に彼らを苦しめることが目的ではありませんでした。この時エジプトで起こった災いの背後には、ご自分が主であることをイスラエルの民はもちろん、エジプトや世界中の国々にまで明らかにしようとしておられる神様のみ心が秘められていました。しかしファラオは結局最後までその神の業に心をとめようとはしませんでした。そして最終的に自らの身に滅びを招く結果となったのです。
Ⅲ:キリストの「神の指」の業を心にとめる
今日の新約朗読では、ルカ福音書第11章14節以下をご一緒に読みました。ここでは悪霊を追い出された主イエスに「悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言った者たちがいたという事が語られています。それに対して主イエスは、ご自分が悪霊を追い出しているのは、悪霊の親玉の力によるのではなくて、神の指(神の力と権威)によってである、とお答えになりました。主イエスによって成し遂げられた神の指の働きこそが、私たちを罪と死の支配から解放し、本当の自由を与えることが出来る神の業です。この主イエスの言葉と業に対して心を頑なにせず、それに心をとめて、このお方を主と信じて生きることが、命に至ることが出来る唯一の道なのです。
私たちの現実に起こる問題は複雑です。私たちはすぐに神のみ心を悟ることが出来るのではありません。むしろ「神様何故ですか。み心はどこにあるのですか」と問い続けなければならないような出来事の方が遥かに多いのです。しかしもし私たちの人生に「神様何故ですか」と問わずにおられないような試練や問題が何もなかったら、果たして私たちは神とか信仰というものを真剣に求めようとするでしょうか。人生の問題や試練に直面し、それらのことで悩み、苦しみ、葛藤する中で初めて、神に目を向け、真剣にそのみ心を求めるようになるのではないでしょうか。そしてそのような信仰の戦いの中でこそ、私たちは練られ、火で精錬された本物の信仰へと鍛え上げられていくのです。
Ⅳ.十字架に示された神の愛の御心
神は、人々が悪霊の頭であると見なした主イエスの十字架を通して、私たち罪人の救いを成し遂げてくださいました。たとえ人間の目には災いとしか映らないような出来事に出遭うとしても、キリストの十字架のみ業を仰ぎ見て、そこにある神の深い愛の御心を知ることが出来ます。今、目の前にあって皆さんを苦しめている出来事は何でしょうか。それが何であろうとその苦難には意味があります。すぐにはその意味がわからないかも知れませんし、もしかしたら一生分からないかも知れません。それでもキリストの愛の業を心にとめる時に、目の前で起こるすべての出来事の中に神の指の業を見て、深い憐れみと愛が満ち溢れているということを信じることが出来ます。それこそが世の人々と別たれた私たちキリスト者だけに与えられている特別な力であり、この世の苦難に勝利する秘訣なのです。