2024年03月24日 朝の礼拝「わたしが刺し貫いたお方」

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2024年03月24日 朝の礼拝「わたしが刺し貫いたお方」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 19章31節~37節

聖句のアイコン聖書の言葉

19:31 その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。
19:32 そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。
19:33 イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。
19:34 しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。
19:35 それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。
19:36 これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。
19:37 また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 19章31節~37節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ.イエスの死の後に起こったこと
 主イエスが課せられた十字架刑は、当時のローマにおいて最も残酷な処刑方法であると言われていました。それはこの刑が、出来るだけ受刑者の死の苦しませて処刑する方法として考えだされたものだったからです。しかも処刑された遺体は、十字架に架けられたまま、何日も晒し物にされて、人々への見せしめとされました。そこでこの十字架刑は、ローマにおいて最も残酷で、恥辱に満ちた刑罰として恐れられていたのです。
 しかしユダヤ人にとっては、木に架けられた遺体を翌日まで残しておくということは、律法違反にあたります。しかもこの日は過越の祭りが行われる週の安息日の前日でありました。そこで過越の安息日が汚されないように、主イエスの足を折って、早く殺してほしいとピラトに願い出たのです。そこで、ピラトの命令を受けた兵士たちが主イエスの足を折ろうとして近付くと、この時、すでに息絶えていたので足は折らずにそのままにしておいたのです。しかし一人の兵士が手にしていた槍で、主イエスのわき腹を突き刺すと、そこから血と水が流れ出しました。これが主イエスが息を引き取られた直後に起こった出来事です。
 
Ⅱ:旧約の預言の成就
 ヨハネ福音書は、36、37節で、これらの出来事が、旧約聖書の預言の成就であったということを説明しています。
 最初の主イエスの足の骨が折られなかったということについて、ヨハネ福音書が想定している旧約聖書の御言葉として、一つは詩編34編の御言葉が思い浮かびます。『主に従う人には災いが重なるが、主はそのすべてから救い出し、骨の一本も損なわれることのないように彼を守ってくださる。』
 そしてもう一つの箇所は、出エジプト記12章46節にある『(過越の犠牲の羊の)骨を折ってはならない』という過越祭の規定です。1章で、洗礼者ヨハネが主イエスのことを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」と呼んでいるのは、この過越の小羊のことです。福音書は、この十字架の場面で改めて、その洗礼者ヨハネの言葉が真実であり、このイエスこそが人間の罪のために捧げられる、過越の犠牲の小羊であるということを明らかにしているのです。

 そして続く37節ではもう一つの、ローマ兵が主イエスの脇腹を槍で突き刺すという出来事もまた旧約の預言の成就であったと説明しています。ここでヨハネが取り上げているのが、今朝の旧約朗読でお読みしたゼカリヤ書12章のみ言葉です。ここでは、神の民であるイスラエルの民が自らの手で、自分たちの神を刺し貫いたのだと言われているのですが、しかしその自らを刺し貫いた相手に対して、なおも神は「憐みと祈りの霊を注ぐ」と約束されています。その時イスラエルの民は、自らが刺し貫いてしまった神の姿を見て、まことの悔い改めへと導かれると言われています。そしてヨハネ福音書は、このゼカリヤ書の預言と、主イエスが十字架で槍に刺し貫かれたという出来事とを重ね合わせて見ているのです。

Ⅲ:イエスの血と水
 少し戻って35節では、この出来事に関する証言について『それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である』と述べられています。この人物は、主イエスが十字架で槍で刺されて、そこから流れ出る血と水を目撃した時に、このゼカリヤ書の預言を思い起こして、そこに記されている「神を刺し貫いた者」とは自分のことだ、と思い至ったのです。

 この「血」と「水」という言葉は、この福音書において特別な意味を持っています。「血」という言葉は、6章54節以下に出てきます。『わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。・・・』この6章の御言葉は、私たちが月に一度守っている聖餐を表す御言葉として読まれます。先月の出エジプト記の御言葉で共に学んだように、ユダヤ教の過越の祭りは、この十字架で死なれたまことの過越の小羊である主イエスの聖餐のパンとぶどう酒という新しい形で、キリスト教会へと受け継がれています。ですからこの「血」は、その過越の小羊である主イエスによって与えられる、罪の赦しであるという事が出来ます。

 そしてもう一つの「水」という言葉は4章14節、あるいは7章37節に出てきます。そしてこの「水」が「霊(聖霊)」のことであるということを明らかにしています。ですからこの「水」は聖霊、あるいは聖霊によって与えられる新しい命のことです。神の御子を十字架につけて殺すという人間が犯した最も大きな罪のただ中で、しかしその主イエスの傷からこの時、罪の赦しの血と、命の霊の水が流れ出したのです。そしてここから神の新しい救いの御業が始まったのです。
 私たちは、主イエスの十字架の死が、この私の罪を贖うための死であった。すなわち主イエスを刺し貫いたのはこの私であるという事に目が開かれる時に、初めて自分の罪というものを本当の意味で見つめることが出来るのです。あるいは逆かも知れません。私たちはキリストの十字架を通して示された神の計り知れない愛を示される時に、初めて自分の罪と言うものを知ることが出来るのではないでしょうか。

Ⅳ.十字架は赦しの象徴
 十字架は本来、罪人を処刑するための道具です。それは醜いものであり、私たちが目を逸らしたくなるものです。そしてその十字架の醜さは、実は私たちの持っている罪の醜さなのです。十字架から目を背けることは、私たちが自分の持っている罪から目を背けることです。しかし十字架のキリストから流れ出る血と水によって、十字架は私たちの罪の醜さの象徴ではなく、その私たちのはかり知れない罪をご自分の御子に負わせてくださった、神の愛と赦しの象徴となったのです。私たちはこの主イエスの十字架の見苦しみを見上げる時に、確かに今、私は罪赦されている、永遠の命に与ることを約束されているということを、確かな真実として保証され、それを信じることが出来るのです。
 

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