Ⅰ:神の御子は人の負債を贖われた
今日は第五の祈り「我らの罪をゆるしたまえ」という祈りです。
罪と言う言葉を聞くと私たちは普通、犯罪行為や道徳的な罪のことを思い浮かべます。それでは聖書の言う「罪」とは何でしょうか。主の祈りでは「罪」を「負い目(負債、借金)」と表現しています。罪を犯すとは、私たちが相手に対して償わなければならない負債を背負うことです。そしてその負い目は、人ではなく天の父である神に対する負い目であると主イエスは言われます。天の父なる神を信じず、この御方から離れ、従わないで的外れな方向に向かって生きているあり方そのものが、天の神に対して負っている罪の大元なのです。その罪の問題を根本的に解決するためには、人ではなく神に対して罪の赦しを乞い、償いをしなければならないのです。
しかし人間は到底、自分の力では神に対して負債を償う事など出来ません。そこで私たちに代わって罪の負債を肩代わりして支払い、償いをするために遣わされたのが神の御子イエス・キリストです。この主イエスの十字架によって、過去に犯した罪だけではなく将来の罪に至るすべての負債を、主イエスが十字架で完全に償ってくださったのです。この御方を私たちの贖い主と信じて受け入れる時に、罪の負債を取り除かれることが出来るというのが聖書の教えの中心です。
Ⅱ:信仰者に罪の赦しを願う祈りは必要か?
しかしキリストが私たちに変わって罪の償いを完全になし終えてくださったのであれば、キリストを信じて救われた私たちはもう、何をしても咎められることはないし、赦しを願う必要はないのではないか。そんな疑問に対して、ある先生は「イエス様を屑籠にしてはいけない」と答えています。
屑籠は単なるモノであって、感情も人格も持っていません。だから私たちは屑籠に対して同情したり、申し訳ないという思いを持ったりしません。しかし私たちの主は、屑籠のような非人格的な存在ではありませんし、私たちの罪を何の痛みも感情もなくその身に背負われたのではありません。主イエスは、私たち以上に豊かな感情と感性を持っておられる人格的な存在です。その主イエスが私たちの罪の身代わりとなるために、どれほどの痛みと辱めを耐え忍び、嘆きと悲しみの涙を流されたのかを心に思いを巡らすなら、私の罪の負債を命をもって償ってくださった御方を罪を放り込む屑籠のように扱って良いはずがありません。
主の傷みや悲しみを知った私たちは、信仰者となった後も日々、罪を神の前に悔い改めて、聖霊が私たちの歩みを清めてくださるように祈るのです。それは救われるための祈りではなく、聖化を求める祈りなのです。私たちは主イエスの十字架の犠牲の意味と救われた喜びを持って、神のみ前にこの罪の赦しを願う祈りを祈ることが出来るのです。
Ⅲ:人の罪を赦すことの困難さ
そしてこの祈りはそれだけでなく、後半の「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」という言葉が続いています。それは、赦しの条件を教えているのではありません。私たちの罪は第一に天の神に対するものであって、その負い目はイエス・キリストの十字架によって完全に贖われたのです。主イエスが弟子たちにこう教えられたのは、私たちが罪赦されることと人の罪を赦すということは一体的な事であるからです。
私たちは時に、理不尽な非難や攻撃を受けて深く心を傷つけられる経験をすることがあります。そしてそのような相手を赦すということは大変難しいことです。そして多くのキリスト者は、相手を赦すことが出来ない自分自身に悩み苦しむのではないでしょうか。主イエスは、人の罪を赦すことが出来ず怒りや憎しみを燃やし続けることが、やがて私たち自身の心を蝕んでいくということをご存じでした。だからこういう厳しい表現を用いて、他者に対する怒りや憎しみから解放される必要があるということを教えられたのです。人が人を赦すことが出来ないから、私たちもまた人間関係の問題に苦しむのです。そして怒りを捨てて人を赦すことの出来ない自分自身を赦すことが出来ず、そのことに苦しまなければならないのです。誰かが憎しみに対して憎しみではなく、愛と許しをもって答えなければ、この負の連鎖は永遠に断ち切ることは出来ません。そしてそれが十字架の主であるイエス・キリストがなされたことなのです。
Ⅳ.憎しみの鎖を解くキリストの十字架
キリストこそ自らを理不尽に攻撃する人々に対して報復する正当な権利を持っておられた御方です。しかし主イエスは敵に復讐する代わりに「父よ、彼らを赦してください。彼らは何をしているのか分からないのです」と赦しと執り成しの祈りを捧げてくださいました。主イエスが十字架の上でこの祈りを祈られた時に、憎しみに対して憎しみを返す負の連鎖は終りを告げたのです。主イエスは、神によって罪赦されながら、しかし人を赦すことの出来ない私たちの弱さ、主イエスの十字架の痛みと涙を知りながら、自分自身の罪を軽く考えて、キリストを平気で屑籠のように扱ってしまう私たちの不信仰さ、高慢さを誰よりもご存じです。しかしその私たちの弱さを責めるのではなく、その私たちのために今も天の神の傍らに立って「父よ、彼らを赦してください。彼らは何をしているのか、分からないのです。」と祈ってくださるのです。赦された者でありながら人を赦すことの出来ない私たちに対して「そのあなたの罪はもう赦されている。だからあなたも人の負い目を赦しなさい」と語り掛けておられるのです。この主イエスの呼びかけに応えて、私たちが自分で自分を赦すことが出来た時に、そこで初めて他者の罪を赦すことが出来る道が開かれるのです。
Ⅴ:義認から聖化へ一歩を踏み出す
主の祈りを通して私たちは、天の国の民として人々のために呪いではなく祝福を祈り、終わりのない憎しみの連鎖を乗り越えることが出来るように聖霊の助けを願うのです。そして主イエスが私たちのために今も執り成しの祈りを祈っていてくださるように、私たちもまた隣人のために「父よ、彼らを赦してください。彼らは何をしているのか、分からないのです。」と祈るのです。
この、罪人である私たちを心から愛して下さり、今もその私たちの罪と不忠実に対して呪いの祈りではなく、愛と執り成しの祈りもって答えて下さるキリストの祈りに支えられて、私たちは他者を心から赦すことが出来る聖化の道へと一歩を踏み出すことが出来るのです。